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第七章 カインとアベル ボブがサリナスを去ってから一年が経った。 「キム、用意は出来たかい?」 ジョンが二階にいるキムに階段の下から声をかけた。 「もう少しで終わるから待って!」 キムがゆっくりと階段を下りて来た。 「気をつけて!」 ジョンが優しい声をキムにかけると、階段の途中で止まって、キムは微笑んだ。 やっとの思いで下まで辿りついたキムのおなかは、はちきれんばかりに膨れあがっていた。 「奥様。大丈夫でございますか?」 チェンが声をかけたとき、キムは急に苦しみだした。 「キム、どうしたんだ!」 ジョンが叫ぶと、「もう産まれそう!」キムが呻きながら屈み込んだ。 「チェン!先生を呼んで来てくれ」 ジョンがチェンに指示した。 「はい、わかりました旦那さま」 チェンは家を飛び出していった。 キムを二階に運び、ベッドに寝かせ、キムの額に唇をつけて、ジョンは言った。 「僕たちの立派な子供を産んでくれよ」 ベッドの横の椅子にすわってジョンはキムの顔を見ていた。 キムはそのとき、三年前にジェイコブが倒れた時、部屋のベッドの横でじっとすわっていたボブの姿を思い出した。 「痛い!また来たわ」 陣痛が繰り返しやってくる。 ジョンの手を掴みながら、キムは我慢した。 陣痛が繰り返すたびに二人は手を握り合って必死に頑張った。 チェンが先生を連れて来た。 キムの状態を見て、先生は二人に言った。 「もう、ここで産むしかない。湯を沸して!」 そして、それから三時間が経った。 その間、キムの悲鳴が幾度となく外まで響くほど聞こえた。 ドアーが開く音がして先生が汗を額に掻きながら出てきた。 「ジョン、男の赤ちゃんだよ」 先生に言われて、ジョンの顔から不安の表情が消え、喜びの声が発せられた。 「ありがとうございます!」 ドアーを開けたジョンは、キムのところに寄って優しく言った。 「ご苦労さま、キム。男の子だよ」 キムはさすが疲れ果てた様子だったが、産まれた子供が無事なのを確認してほっとしたのか、急に眠気が催したらしい。 「キム!男の赤ちゃんだよ。キム!」 ボブが、子供っぽい顔をしながら、ベッドに横たわっているキムに囁いた。 はっと気がついたら、傍にジョンがすわっていた。 キムはボブの夢を見ていたのだ。 「わたし何か言っていた?」 キムは心配そうな顔をしてジョンに訊いた。 「いや、別に・・・」 ジョンは微笑んで言った。 しかし、何処となく淋しそうな表情に見えたのはキムの思い過ごしだったのだろうか。 「今、思いついたんだけど、この子の名前はカインにしよう」 急に言われたキムは、「ああ、あなたがいいなら・・・」咄嗟に返事をした。 何も考えずに返事したキムだったが、赤ん坊の顔がボブに似ていることに気がついたキムは急に不安な気持ちになった。 しかし、その不安がとんでもない後悔をさせられる羽目になるとは、その時思ってもいなかった。 それから2年が経った。 カインが2才の誕生日を迎える前に、キムは2人目の子を産んだ。 サリナスのような田舎では、都会で起きていることなどまったく知らないで、時はゆっくりと過ぎていく。 ボブが2年の間に大実業家になっていることも知らない二人は、幸せな生活に浸っていた。 ジェイコブが倒れて、ジョンが戦争に行ってしまった頃のことが嘘のようであった。 ボブがひねくれて孤独でいた時、父・ジェイコブの誕生祝いの大豆事件がきっかけで、ジョンが地獄に叩き落とされ、ボブは生まれ変わった。 ジョンが地獄の戦争生活から帰って来ると、今度はボブが地獄に叩き落とされた。 ジョンとボブの間を往来することで、キムはいつも幸せを得ていた。 キムにはそれ以外為す術がなかったのだ。 他人(ひと)に流されることで不幸になる人生があるなら、他人(ひと)に流されることで幸せになる人生もある。 男と女ではどうやら逆らしい。 流されるままに生きる女の方が幸せを掴むらしい。 男が流されたら、間違いなく不幸が待っている。 ジョンは流される人間である。善人であるが故に流されるのかもしれない。 ボブは決して流されない人間である。悪人であるが故に流されないのかもしれない。 人間社会の中で、男と女の宿命の戦いであるのかもしれない。 しかしそれが故に男と女は魅きつけ合うのも事実だ。 「アベルという名前にしよう」 ジョンはキムに言った。 『やっぱり、そうなの・・・・』 最初の子が生まれ、ジョンがカインと名づけた時に感じた不安が、『二人目の男の子が生まれたらアベルと名づけるのでは・・・』とキムに予感させていたのだ。 しかし、キムは反対しなかった。 カインとアベルは聖書に出てくる兄弟の名前だ。しかも兄のカインが弟のアベルを殺すのだ。 『どうしてジョンは、こんな不吉な名前をつけるのかしら』 キムはカインと名づけた時に思った。 『カイン』と呼ぶたびにキムはボブのことを思い出した。 ジェイコブが二人をジョンとロバートという名前にしたのも、実は聖書にあるカインとアベルをもじったのである。 『あの敬虔なクチェンスチャンのジェイコブがどうして、二人の兄弟にこんな因縁のある名前をつけたのかしら』 キムは今まで気がつかなかった自分に呆れていた。 『やはり、ジェイコブとエバは単なる離婚ではなかった。何か深い訳がきっとあったのだわ』 急にキムは不安な気持ちに襲われた。 ジョンは、そんなキムの気持ちを察していたのか不気味な笑いをして言った。 「アベルはカインと違って優しい子になると思うよ。僕はそういう子供を欲しかったんだ」 一体、ジョンはどういうつもりで言ったのか、キムにはその時まったく理解できなかった。 |