第五章 神の器量

わたしたち「想い」の世界では想いの広さは、コントロールする肉体、つまり星の大きさに比例します。
しかし人間の場合肉体の大小はほとんど変らないが、想いの広がりは人間によって大きな差があります。極端に言えば、のみの心臓という小心者から、我々星の想いに匹敵するぐらいの大きな想いというか心の広がりを持っているものもいます。その差を器量の差と言うそうです。
そうするとわたしの器量はどの程度のものか、みなさんも興味がお有りでしょうが、わたし自身がやはり一番関心があります。
それは決してプライドからそう思うのではなく、これからの地球とその地球上に住む生命体すべてに影響を与えるからです。
わたしの器量次第では地球そのものがバラバラになることだって有り得るのです。
本来ならば、地球の大きさに比例すると言いました。
そうすると相対的比較をすれば、父のヒカリの太陽と、子供の月を例にあげると大体、太陽は地球の100倍、月は地球の4分の1ぐらいの大きさです。
たかだか月と地球の差は4倍程度ですから、テンシも親のわたしに偉そうな口を叩くのです。
そして人間の意識の潜在能力は月並みのものを持っています。もちろん100%潜在能力を発揮しての話しですが、かなりのものを持っています。
普通の人間は潜在能力のせいぜい20%発揮できれば天才といわれ、一般人は10%から15%も出せれば上出来でしょう。
いっぽうわたしの場合は常に持っている能力を100%出すことが出来ますから、一般の人間の器量はわたしの40分の1から天才でも20分の1ぐらいです。
しかし人間の潜在能力は月並みで、しかもそのメカニズムは太陽をも凌ぐ精密さを持っていることから総合的に判断して、わたしとほとんど遜色ない能力を持った有機生命体であると思います。だから化け物とか怪物とか言われるのです。
どうして他の生命体と違って人間だけが、これほどまでの能力を保有するようになったのか、以前父のヒカリに尋ねたことがありました。その時父のヒカリでさえ分からないと答え、それを知っているのは多分全体宇宙の「想い」だけだろうと言ってました。
なぜ、こんなちっぽけな生物がそれだけの能力を持っているのかまったく不思議なことです。
しかし、地球上に今存在する人間の数は60億を超えている。
太陽系の惑星は9つ、衛生を加えても人間の数の60億にはとうてい及ばない。
したがって地球上の人間がすべて潜在能力をフルに発揮しだしたら、一体人間の影響力はいかほどの力を持つか、計り知れないものがあります。
彼らの持っている総合力を何としても良い方向へ向けさせなければなりません。
それがわたしの使命だと思っています。
その為には、人間ひとりひとりの器量を上げさせることが大事なことなのです。
ところが人間だけに持っているこの器量の差が今までは逆効果を生んでいて、一部の数少ない器量のある人間が自分を利することに普請している。
器量のあることを悪用している。そのためには器量の差を人の間でつくってはならない。どうすればそうなるか。
機会の平等を与えると、器量の差があると結果の差が出る。
結果の平等を与えると、器量ある人間がやる気を失くして結局器量ある人間がいなくなってしまう。
そうすると理論的には、機会の平等が与えられ、かつ結果の平等も出る、のが理想だ。
だが果たしてそんな事が実現可能だろうか。
機会の平等が与えられると、個人個人の主観に委ねられるから必ずそこに違いが生ずる、つまり客観性の喪失になる。
結果の平等は客観性の実現だ。
結局のところ、主観と客観の同化が絶対条件になる。
今までの人間社会は主観が支配する社会だった。それは人間だけの特異性だ。わたしたち「想い」も含めて宇宙すべてが客観性に基づいて存在している。
やはり、人間社会も我々の客観性宇宙に戻さねば無理だろう。
エデンの園に戻すしかない。だからといって他の生命体と同じような生活スタイル、すなわち2−4百万年前の原人に戻す訳にもいかない。
我々「想い」は想いだから主観であるはずなのに客観性の中に存在出来得ている。
結論は人間も我々「想い」の世界の一員に入れるしか方法は無さそうである。
わたしと同じ神の世界の一員にするしかない。しかしそう簡単には出来ない。
やはり、我々の世界のことをひとつひとつ教えていくしかないと思います。