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第二章 人間の整理 前章でお話しましたように、20年後に宇宙ステーション建設完成に基づく1万人の人間の月への移住が開始されます。 その時に邪魔になる人間が今、この地球上にたくさんいます。 一体、その類の人間とはいかなる人間かを明確にしておく必要があります。 基本的には精神性の非常に低い人間であります。 精神性が低いとはどういうことかと申しますと、人に喜びを与える能力のない人間であります。 ここで人に喜びを与える気持ちのない人間という言い方を敢えてしなかったのは、人に喜びを与えることが出来るか、出来ないかという問題は、その人間の気持ちの問題ではなく、その人間の人に喜びを与える力(能力)の有無の問題であるからです。 一般的には、人に喜びを与えることの少ない人間は、それだけ自分のことばかりを考えているからであり、余りにも自己の利益のみを追求するから、人に喜びを与える気になれないのだと考えがちであります。 これは大いなる錯覚であります。 いくら人に喜びを与えたいと思っても出来ないものは出来ないのです。 またいくら人に喜びを与える気がなくても、与える能力のある人間は結局、与えるのです、それがその人の本質だからであります。 ここのところを良く認識しておかないと、人間の整理をするときに大変な間違いを起こすことになります。 そうしますと、喜びを与える気持ちと、与える能力の違いはどこで起こるかが問題の焦点になってきます。 基本的に能力があるということは、その人間は努力をしておるということであります。 努力をすることが出来るということは、自己制御が出来るということであります。 自己制御が出来るということは、本能的欲望に打ち勝つ意志力があるということです。本能的欲望に打ち勝つ意志力があるということは、大きな目標・夢を持っているということであります。大きな目標・夢を持っているということは、持続力を持っているということであります。持続力を持っているということは、忍耐力を持っておるということであります。忍耐力を持っておるということは体力があるということであります。 この体力とは何か。単なる体の力であるのか。いや違うでしょう。その人間という一個の個体の持っているエネルギーの総合力であると思います。 エネルギーに満ち溢れている人間は、強力な磁力を持っております。すなわち星で言えば引力であります。重力であります。重力はそのものの質量に比例します。 結局のところ、重さであります。その人間の重さであります。その人間の「想い」の重さであります。 「想い」が重いということは、「想い」の密度が濃いということであります。 この「想い」の密度が濃いということが決定的要因になると思います。 その為には、「想い」というエネルギーの結晶化がどれぐらいされているかであります。結晶化がされていればいるほど、密度は濃くなります。 改正編でも「想い」の結晶化については、お話し致しました。 精神性を高めるということは、「想い」の結晶化がどれだけ為されているかであります。その為には、エネルギーの無駄な放出は一切避けなければなりません。 すべてのエネルギーを内面方向へのベクトルに変えなければなりません。 結局、この騒然とした世界の中で超然と独りで生きてゆける人間であります。 こういった人間は、世の中で目立たない存在に徹しておるのです。これはよくよく考えてみれば当然至極のことなのです。一人の人間が生きている世界は、その人間だけの、つまり一人の人間しか実在しない世界であって、他のものはすべて幻想の世界であるのですから、外にエネルギーを向けるということは、幻想という映像の世界にエネルギーを放出していることなのです。エネルギーは実在するものから、実在するものへと移動していくものであって、実在しないものへ移動しようがありません。そうすると外に放出されたエネルギーはどうなるかといいますと、幻想という映像のスクリーンにぶつかるしかないのです。映像は実在しないが、スクリーンは実在します。そのスクリーンはどこにあるかといいますと、あなたの目の網膜を通した、心の中にあります。結局、エネルギーはあなたの内に向かう道しかないのですが、直接向かう道と、一旦外へ出て、外の幻想の世界を見て、その影響を受けて内にある心のスクリーンに向かう道とがある訳です。一旦外へ出てから内に向かうエネルギーはそれだけ無駄使いをしておる訳です。 そうしますと、目立った生き方をしている人間は、いかなる人間であっても、結局は大いなるエネルギーの無駄使いをしておるのです。 そのカテゴリーの中に、この世的成功を収めた人間の中でも、立派な人物がいると言われる人達であります。しかし、わたしのカテゴリーの中では所詮、人を喜ばしたい気持ちのある人間であって、人を喜ばす能力のある人間ではないのであります。 人間が、立派な人間という基準は、人間にとっての基準であって、宇宙の基準ではありません。宇宙にとってはエネルギーの無駄使いするものを、良いとは判断されないのです。 これまでの人格の基準では、通用しない能力であるのです。ここのところをきっちりとしておかなければならないと思うのであります。 だからこの章での結論は、エネルギーの無駄使いをする人間は、たとえ、人間として立派なものと判断されても駄目である。常に独りで宇宙と対峙している人間が宇宙の認める人間であるということです。 |