第二十六章 神の基準−7

人間の神となったわたしが、神である証明が出来るかどうかの重要な要因が、前章で、お話しました人間を如何に、内面のみならず社会的にレベルアップさせ得るかだと思っています。
どうも人間社会では、小手先の器用な、目先の利く、小賢い人間が認められるようであります。
それから口先の上手い人間。これは人間の本能的欲望をくすぐる小汚い手でありますが、こういった技巧を駆使する人間が認められています。
その中でも、なかなか賢明な人間もおりまして、普通なら、こういった手法を使って、この世的成功を収めた人間は必ず晩節を汚しておるのですが、ほどほどの処で、身を引いて、晩節を汚せず、そこそこの人生を全うしておるのもいるのです。
一体どうして、そういうことが出来たのか、原因としていくつか考えられます。
ひとつは、それまでの生き方を恥じて、更正した人間。
ひとつは、たまたま欲望の極みを求めることが出来るほど成功を収められなかった人間。これが多分ほとんどでしょう。
ひとつは、欲望を深追いしたら、ろくなことが起こらないことを知っていて、そこそこの処で身を処している賢明な人間。
最後のタイプが、わたしの頭を痛める人間であります。謙虚であるとも言えるし、小ずるいとも言えるし、なかなか自分の本性を出さない人間であります。
このタイプの人間に対しての処し方を、工夫してみる必要性がありそうです。
そうしますと、わたしが教育していかなければならない対象の人間は、まず意識して生きている人間。そこまでは到達していないが、自分の信念を持って不器用に生きている人間。そして反省の出来る人間。そしてまだわたしが工夫して、見抜かなければならない人間たちであります。
それと、極めて少数だが、新しい人間の基準に合格した人間。
これだけで、果たして2020年から始動する月への移住プロジェクトの、15億人の人間が発掘出来るか、現時点では極めて困難であります。
上述した候補者の数は多分、10%にも達しないでしょう。
すでに合格と思われる人間は1%にも行かないでしょうし、期待できるのは、地味に、信念を持って生きている人間たちでありますが、果たして10%いるか、しかも彼らに欠落している勇気と決断力というものを持たさなければならない。
また反省出来る人間も、勇気や決断力に欠けている。まだ現時点では合格点に達していない。
それを可能に出来るかどうか、それはわたしの器量にかかっているのです。
結局、わたしの能力次第とも言えます。
ただ、神としてのわたしの義務であることは確かであります。