第八十八章 観る世界(実在世界)と観られる世界(映像世界)

自分=『今、ここ』=記憶(静止画フィルム)=実在に他ならない。
一方、
他者=過去・現在・未来=追憶(動映画)=映像に他ならない。
ところが、
自分は他者を介してしか見ることはできない。
自分は他者を介してしか聞くことはできない。
自分は他者を介してしか匂うことはできない。
自分は他者を介してしか味うことはできない。
自分は他者を介してしか触ることはできない。
つまり、
五感で感じる自分は他者という鏡に映る映像(音・匂い・味・触感)に他ならない。
ところが、
我々人間は、
他者という鏡に映る映像(音・匂い・味・触感)=五感で感じる自分を“自分”だと思い込んでいる。
言い換えれば、
映画を鑑賞しているのが本当の“自分”なのに、
映画に映っている映像の自分(自我意識というエゴ)を“自分”だと思い込んでいる。
更に最悪なのは、
映画には、“自分”など映っていない。
夢には、“自分”は映っていないのと同じである。
従って、
鑑賞者=観る者(見る者・聞く者・匂う者・味う者・触る者)という、“自分は・・・”という意識のない者が本当の自分に他ならない。
一方、
被鑑賞者=観られる者(見られる者・聞かれる者・匂われる者・味られる者・触られる者)という、“自分は・・・”という意識する者がニセモノの自分(自我意識のエゴ)に他ならない。
まさに、
自我意識というエゴの“自分”は、二重の錯覚をしているのである。
まさに、
自我意識というエゴの“自分”は、自覚症状のない音痴に他ならない。
そして、
自覚症状のない音痴の人間が織り成す社会が、支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会なのである。