第九十三章 “有の世界”と“無の世界”

自分と他者という区分けの概念こそが、すべての錯覚の元凶である。
そこで、
“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触感の世界”では、自分も他者もない。
一方、
“運動の光と音と臭と味と触感の世界”だから、自分と他者がある。
まさに、
科学は、すべての世界(宇宙)を“運動の光と音と臭と味と触感の世界”と捉えている錯覚にある。
しょせんは、映像の世界なのだ。
言い換えれば、
見えるということは、光が介在している証拠である。
聞こえるということは、音が介在している証拠である。
匂えるということは、匂いが介在している証拠である。
味わえるということは、味が介在している証拠である。
触れるということは、触感が介在している証拠である。
まさに、
“運動の光と音と臭と味と触感の世界”は、有の世界、つまり、映像の世界に他ならない。
一方、
見えないということは、光が介在していない証拠である。
聞こえないということは、音が介在していない証拠である。
匂えないということは、匂いが介在していない証拠である。
味わえないということは、味が介在していない証拠である。
触れないということは、触感が介在していない証拠である。
まさに、
“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触感の世界”は、無の世界、つまり、実在の世界に他ならない。