第九十五章 死のリハーサル

“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触感の世界”は、無の世界、つまり、実在の世界に他ならない。
一方、
“運動の光と音と臭と味と触感の世界”は、有の世界、つまり、映像の世界に他ならない。
そこで、
第八十七章【人生の特異点】で述べた通り、
三元世界の特異点である超対性の死を理解することこそが、終わりのある人生が映像であることの証明になる。
まさに、
特異点とは境界のあることであり、特異点を超えることとは、有限だが無境界である意味に他ならない。
更に、
第九十一章【『実在の死』&『映像の死』】で述べた通り、
我々人間にも死という境界線(特異点)があるはずだ。
一方、
毎日の眠りの中で観る夢の世界と、夢から覚めたあとのいわゆる現実の世界との間にも境界線(特異点)がある。
なぜならば、
夢の世界といわゆる現実の世界は同じ世界だと思っていないからだ。
ところが、
問題は、夢の真最中には、夢だと思わず、現実だと思っている点にある。
つまり、
絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))が、
夜眠りに就く瞬間(とき)であると錯覚する所以がここにある。
従って、
相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))が、
朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)であると錯覚する所以がここにある。
つまり、
絶対性の死、相対性の死とは、
対消滅と相転移による映像の死に他ならなかったのである。
そして、
超体性の死が、
実在の死に他ならなかったのである。
まさに、
生(生きる)とは、昨日・今日・明日(過去・現在・未来)に繋がっている映像の世界を観ていることに他ならないのである。
一方、
死ぬとは、昨日・今日・明日(過去・現在・未来)に繋がっていない実在の世界に移ることに他ならないのである。
従って、
絶対性の死、相対性の死である映像の死こそが、生(生きる)ことに他ならないのである。
そして、
超対性の死である実在の死こそが、本当の(本番の)死に他ならないのである。
つまり、
絶対性の死、相対性の死とは、死のリハーサルに他ならないのである。
つまり、
生(生きる)とは、死のリハーサルに他ならないのである。