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第十一章 十七条憲法―10 「十に曰く 忿(ふん)を絶ち、瞋(しん)を棄てて、人の違うを怒らざれ。人みな心あり、心おの おの執ることあり。彼、是なれば、則ち我、非なり。我、是なれば、則ち彼、非なり 我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚にあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理、誰 か能く定むべけむや。相ともに賢愚なること、鐶(かん)の端なきが如し。是を以っ て、彼の人瞋(いか)るといえども、還ってわが失を恐れよ。われ独り得たりといえ ども衆に従って同じく挙(おこな)え」 心の中の怒りを棄てるようにせよ。人が自分と違うからといって怒ってはならない。 人それぞれ心がある。それぞれ意見を持っている。彼が正しいなら、こちらが間違っているのである。彼が間違っておれば、こちらが正しいのである。こちらが絶対、賢とはかぎらず、人が必ず愚とはかぎらない。共に凡夫に過ぎない。是否善悪は容易に定められるものではない。互いに賢愚といっても、円い輪に両端がないのと同じで、要するにお互いさまである。こういう次第だから、人が怒った時もよく自分を反省し、また自分ひとりこれでよいと思っても、異を立てずに、たいていのことは衆に従って同じようにやるがよい。 この条などは憲法というよりも、倫理観、宗教観であります。 聖徳太子が祭政一致の政治を行ったと言われる所以であります。 本来、祭りごと、すなわち宗教と、政りごと、すなわち政治とは表意語であったのを表音語にしたほどであるから、いかに宗教と政治とが表裏一体であるかを物語っている。 現代人は宗教と捉えるから誤解を生むわけであって、道徳観、倫理観と考えれば政治は、人間が生きていく上での道徳、つまり常識を守ることが本であるのです。 だから聖職と言われるのです。 それなのに、自己の利を追求する商売になっておるのが現代の政治であって、千四百年前の教えを、未だに守ることが出来ないでいる凡夫が政治を行うようでは、末世と考えられても仕方ないでしょう。 そして、さらに謙虚であれと説いておられます。 謙虚ということは、我を張らないことであり、自分を利する前に、相手を利することを先づ考える。釈迦の言う慈悲の心であり、イエスの説く愛ではないでしょうか。 政治は愛であり、慈悲であると喝破した人間だけが、政治家という職業に就くべきではないでしょうか。 |