第十二章 十七条憲法―11

「十一に曰く
   明らかに功過を察し、賞罰必ず当(ただし)くせよ。日者(このごろ)、賞は功に在(お)いてせず、罰は罪に在(お)いてせず。事を執(と)るの群卿、宜しく賞罰を明らかにすべし」

功績や過ちを公明に調べて、それぞれ賞罰当を失わぬようにせよ。近頃功もないのに賞し、罪もないのに罰するようなことが行われている。当局者は賞罰を明らかにせよ。

千四百年の月日が過ぎても人の心は何ら変わらない感がします。
かえって人の心は貧しくさえなっているようにも思えてなりません。
聖徳太子は、当時最も偉い地位にいた人物であります。今でいえば天皇と総理大臣を兼ねた方であったわけです。
その方が、公正が大事であるにも拘らず、不公正がまかり通っておると市井を見透しておられる。
今の総理大臣に、そんなことが言えるでしょうか。何か当局者に不祥事があったときだけ、非常に遺憾であるとか、何とかのたまわれるけれど、常日頃に戒めとしてこういったことを言われるところに太子の偉大さが伺われるのではないのでしょうか。
人間の心情として、言っていることと、やっていることとが一致している人間だけが、何も問題が起こっていないときに、言える言葉だと思います。
言行一致していない人間は、心に後ろめたさがあるから、進んで言うことは出来ないのであります。もし言っておって、後で矛盾したことが起こるとますます立場が悪くなることを知っておるから、自分から進んで言えないのであります。
本当に勇気のある指導者は、みんな有言実行者であります。
不言実行者は、中には謙譲の美徳の精神でおられる方もいるでしょうが、概して勇気のない方が多い。
実行できるためには、その前に絶対必要な過程があります。決断であります。
決断なくして実行は有り得ません。
有言こそ決断した証であるのです。不言では決断したかどうかが不明であります。
そうしますと、実行する可能性は、有言の方のほうが遥かに不言の方よりも高くなるわけです。
太子は有言されておられる。ここが偉大なところではないでしょうか。
現代の政治家や役人を見ておりますと、なるべくはっきりとした意見を述べようとはしないで、ぼやかそうとしている方が多いのが目立ちます。
もっと、ひどい例を言いますと、学校の先生や医者の先生がたが、生徒や患者から質問を受けて、はっきりと答えない。これなどは論外でありましょう。
診断を受けた医者に、どこが悪いのかと聞いて、医者が答えないなら、何のための医者でありましょうか。
政治家が選挙のときだけ、公約だと言って大きなことを約束される。そして当選するやいなや、その公約は忘却の彼方に消えてしまう。そういった常習犯が何度も当選して、大臣になる。これでは国の体を成しておりません。投票する側にも大いなる責任があると言わざるを得ないのではないでしょうか。
もう一度太子の言葉をじっくりと噛みしめて頂きたいと思います。