第二章 十七条憲法−1

日本人の国字を明確にし、特質を決定づけたのが、聖徳太子の十七条憲法であります。
この中に、言霊としてのやまと言葉が示されていることを忘れてはなりません。
そこで、まずこの十七条憲法から検証して見たいと思うのであります。
「一に曰く
 和を以って貴(たつと)しとなす。さからうことなきを宗とせよ。人みな党ありて、また
 達(さと)れるもの少なし。是を以って、或いは君父に順(したが)わずして、また隣里
 に違う。しかれども、上和(やわら)ぎ、下睦(むつ)びて、事を論ずるに諧(かな)え
 ば、則ち事理おのずから通じ、何事か成らざらむ。」

人間にとって、和が大切である。我を張って、人にさからってはならない。人間は、ともすれば徒党を組んで悪を働き、物事の道理をわかった者は少ない。だから目上の者や親に従順でなかったり、まわりの人々と仲たがいをしたりする。
しかし、上の者が和やかな気持ちを以って下の者に接し、下の者も親しみを以って上と仲良くすれば、どんなに議論をしても、どこかでまとまるものである。上も下も、このような気持ちを以って和を貴しとすれば、何事も成就しないものはない。

この精神が今の日本人に一番欠けているとわたしは思います。
特に戦後教育において、何事も平等、平等とわめきながらも口論したり、人を責め、罵ったりする。平等という言葉は、本来、仏教では仏様のご慈悲のことであり、イエスの教えでは愛ということであるのに、人の失言の揚げ足を取って、攻撃するための材料に使うべき言葉ではないと思います。
「あなたがたの中に今まで一度も罪を犯したことのない者だけが、この娼婦に石を打つ資格がある」
とイエスの言葉として聖書に書かれています。
わたしは、クリスチャンではありませんが、この言葉は真理を言っていると思います。
娼婦という言葉、犯すという言葉は、差別用語なのかどうかわたしは知りません。
しかし、このイエスの言葉をまず一人一人の人間がどう考えるかが大事なことであって、その語彙のひとつひとつをとってとやかく言うのは本末転倒ではないでしょうか。
イエスの時代にイエスを十字架に架けた民衆がまさにこういった人たちではなかったかと思うのであります。
ファキール(密教回教徒)のマンスールという人物が、それぞれの人間の中に神性があると悟り、「我は神なり」と言っただけで、その言葉尻だけを、とらえ、彼の言わんとすることを理解せずして切り刻んで殺した民衆も、こういった人たちではなかったでしょうか。
人間の想いは、まず音として発し、その音が言葉になり、複数の言葉が文章になり、文章がその人の考えになり、考えの連続つまり連想が、その人の想いになる訳です。
その中で言葉が生まれたのであり、現存する言葉にはそれなりの固有の歴史がある。その言葉を安易に殺してはならないとわたしは思います。
もちろん、特定の人に対して侮辱する言葉は良くないことです。
「あなたは賢い方ですね」と言って侮辱する場合もあります。
「あなたは馬鹿ですね」と言って誉める場合もあります。
どちらが正しいかは、議論の余地はないはずであります。
この十七条憲法の和を貴しとする聖徳太子も、お互いに好意、誠意を以って事に当たれと言っておられるのです。
言葉尻をとって、人を責めるのはどんなものでしょうか。
政治家がちょっと不用意なことを言った、それだけで責任を取らされて辞める。
問題は、その政治家が国のために役にたっているかどうかで、辞めさせるかどうかを判断するのであって、不用意な言葉を吐かないように慎重に言葉を選ぶことに腐心しておれば、辞めなくてすむ。その為には本音を吐かないのが一番安全だと思っている政治家ばかりでは、国はかならず滅びます。
それ以上に、そういった風潮が嵩じて、大事な文化を壊していくことの方が日本の国にとっては憂うべきことではないでしょうか。