第二十六章 古事記と日本書紀

「記紀」と呼ばれるように、古事記(712年)と日本書紀(720年)は、ほぼ同時期に編纂されたと言われている公式の日本歴史書であります。
しかも古事記は、天武天皇の勅命により、稗田阿礼が喋ったことを太安万侶が漢字で書き綴ったのを元明天皇の時代に完成し、日本書紀は、同じく天武天皇が号令し、舎人(とねり)親王を中心に、多くの識者が編纂したもので、妃の持統天皇が、その遺志を継ぎ、古事記と同じく元明天皇の時代に完成させた、書物であります。
しかし、前章で、古事記と万葉集では、古事記は漢字を表意的かつ表音的に使い、万葉集は遥かに表音的になったとはいへ、両方とも、日本語の言葉を重視しながら漢字を利用した共通性があります。それだけにその後の日本語に、あいまいさ、を残す結果となったと申しあげました。
一方、日本書紀は、漢字を表意的に使って、中国人が読んでも、ある程度、意味が解る文体になっています。
ところが古事記、日本書紀は八世紀の初めにでき、万葉集は九世紀の初めにでき、100年の時差があるわけです。
何を言いたいかと言いますと、同じ歴史書であるはずの古事記と日本書紀との共通性よりも、100年遅れてできた万葉集と古事記との方が共通性が多いということであります。
しかも古事記は史書でありながら、日本書紀のように固い内容ではなく、どちらかというと、文学的要素の多い書物なのです。
つまり、古事記が実際編纂されたのは、万葉集と同じ、奈良時代末期から平安時代初期ではなかったかと思うのであります。
日本の正式歴史書としての、日本書紀(正式には日本紀)が、あまりにも事実でないことが多い。天皇家にとって都合のいいことばかり書かれている日本書紀を、日本の古来からの伝統である、伝説として語り継がれていく方が真実を言っているのだと、あたかも古事記が言っているような気がするのです。
それと、日本書紀では、あくまで漢字の伝統を守って表意的に書かれているのですが、あまりにもでたらめな漢字の使い方をしているために、内容がきっちりと表現出来ていないと思うのであります。それが真実を改竄していると採られているとも考えられます。
それを修正するために、古事記が100年後の万葉集の時期にできたのが真相のような気がしてなりません。
わたしは古事記と日本書紀のどちらが、より真実を伝えているかということを議論しているのではありません。
わたしが、強調したいのは、八世紀から九世紀の100年間、つまり平城京から平安京に移る、この100年間に、日本の言葉が大きく変わる時期であったのではなかったかと思われるのです。八世紀の初めは、七世紀に活躍した聖徳太子たちが導入した漢字を、本来の表意的に使っていたが、日本人の言葉が表音的であるのに、漢字は表意的であり、本来、日本人にとって漢字は適していないことに、その後の100年間の間に気がついて、だんだん表音的に変わってきたのではないでしょうか。
つまり、漢字が中国から導入された七世紀の聖徳太子の時代には、中国からの教え通り、漢字の特性が守られてきたが、それでは漢字をかなり習得していないと使えない訳です。
たとえば、英語は国際的に使われていますが、喋ることは出来ても、書くことは出来ない人たちが一杯おります。英語を母国語として使っている国でさえ、たくさんいます。いわゆる文盲といわれている人たちです。
八世紀の末期頃までは、まだ日本語の文字としての仮名ができていなかったから、書物、つまり文章にするには漢字しかなかった訳です。
だから、歴史も口頭伝説として伝えていくしか方法はなかったのだと思うのであります。そして日本書紀が八世紀の初めに漢字で書かれた。ところが、漢字に未熟なためにきっちりと事実が書かれていない。それを何とか日本語表現で解りやすく編纂される為に、古事記が書かれたのではないかと思うのであります。
では、何ゆえ、古事記が712年に書かれ、日本書紀が720年に書かれたとなっているのでしょうか。
ほとんど同時期で、しかも少し古事記が早い、一方で内容に微妙な違いがあるし、多分に古事記は万葉集のような詩集ではないのに、詩的表現が多く使われた、文学的な匂いがする歴史書となっているのは何故でしょうか。
やはり、古事記は万葉の時代、つまり奈良時代末期から平安時代初期の中で書かれたのだと思うのです。
しかし、稗田阿礼、太安万侶は天武天皇の時代の人物であります。これをどう説明するか。
わたしは、これも事実だと思います。
原文は、稗田阿礼の喋ったことを、太安万侶が漢字で書き綴ったのだと思います。そして、日本書紀より、少し早く完成していたのだと思います。
しかし、内容が、当時の為政者にとって都合の悪いことや、漢字の使い方が、あまりにも幼稚であったりして、結局、採用されずに、同時に作業が進められてきた日本書紀を採用したのだと思うのであります。しかし、その日本書紀も完璧とはとうてい言えないものだった。
それで、その後、漢字を表音的に使う、つまり日本語的に使う方法が、編み出された。それが万葉仮名であるのですが、その万葉集の万葉仮名の手法を使って、古事記の原文を書き換えたのだと考えれば、古事記が712年に書かれたという説明がつくのであります。
歴史書には、事実の改竄が多いことは確かであります。一方歴史書を残すということは、事実あったことを後世に残す為に書かれるのですから100%改竄であれば、歴史書を書く意味がない。
為政者たちの都合のいいように書きたい、しかし事実も書いておかないと、伝説との乖離が大き過ぎて、信頼性がなくなる。本来、歴史書というものは、そういう性格を持ったものであります。
そこに、八世紀から九世紀にかけて、つまり、奈良文化から、平安文化の狭間で、現代の日本語、すなわち漢字と仮名の併用による言語のルーツが生まれてきたのではないでしょうか。
そうしますと、この700年代から800年代の日本は、言語学的に言っても、非常に重要な時期であったように思うのであります。
古事記も、そういう中で完成されたのではないでしょうか。そう思うと、古事記という名前にも、何か意図的なものが感じられてくるのです。
もともとは、古事記と書いて「ふることぶみ」と呼んでいたそうであります。
古い出来事を綴った文であるのです。
古い出来事の最たる表現が、古事記では「序」という章でありますが、古事記では、日本国のはじまりの説明の中で、宇宙を創造した神を、天御中主命大神(アメノミナカヌシノミコトノカミ)としていますが、日本書紀では、国常立命大神(クニトコタチノミコトノカミ)としていて、違っています。
神社伝説では、天御中主命大神が表世界(正式)の宇宙創造神、国常立命大神が裏世界の宇宙創造神と言われています。まったく逆になっているのであります。
そういたしますと、天津神と国津神との違いも解けてくるように思います。
古事記の中に、
夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曽能夜幣賀岐袁
やくもたつ  いづもやへがき  つまごみに やへがきつくる  そのやへがきを
と言う、有名な文と言うより、詩があります。
これなどは、まさに万葉仮名を使用しているとしか思えないのであります。
現代日本語では、
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
国津神のルーツである出雲のことを詩っているのであります。まさに万葉風であり、
しかも国津神の祖である、国常立命大神のことを示唆しているのです。
ここに、日本人の複雑な性格が表れており、それが日本語という言葉になっておるように思われて仕方ありません。