第二十八章 万葉集から古今和歌集・新古今和歌集

万葉集は、奈良時代の末期に大伴家持によって編纂されたと言われています。
しかも、万葉集も、古事記、日本書紀、と同じく時代の差はあっても天武天皇の影響があったと申しあげました。
一方、それから100年以上経った、905年に第60代醍醐天皇の下命で、仮名と漢字を使って、紀貫之、在原業平らが中心になって、日本最初の勅撰和歌集である古今和歌集が編纂され、完成されたのが913年であると言われています。
そのちょうど狭間の866年に応天門の変があり、藤原良房を中心とした藤原一族によって、天武朝の功臣であった大伴一族が滅ぼされているのです。
藤原良房という人物は、この事件のあった当時の清和天皇の外祖父にあたる人間で、天皇家以外から初めて太政大臣になったのです。しかも清和天皇と言えば、清和源氏で有名な、後に武家社会の棟梁を生んだ武家の祖でもあります。佐竹、武田、新田、そして足利という、日本の隠れた歴史の中で、最も暗躍した一族を生んだ天皇であります。
古今和歌集は、万葉集が、恋の歌あり、失意の歌あり、歓喜の歌あり、と4500首の歌に、多様性があり、まさに、かき集めたという感があるのに対して、古今和歌集は、一貫したテーマがあります。
無常感と申しますか、もののあわれをテーマにした、しかも藤原一族に対するアンチテーゼの歌が多いのが特徴であります。
醍醐天皇の父・宇多天皇は、菅原道真を右大臣に登用して、醍醐天皇へと引き継がれ「延喜の治」という天皇親政を目指した方であります。
普通、天皇親政と言いますと、後醍醐天皇が、足利尊氏という武家との争いで、天皇親政を目指し、敗北して島流しにあいながらも、南朝をつくった天皇として、あまりにも有名な方であります。
この後醍醐天皇は96代天皇で、その父君が後宇多天皇であり、13世紀から14世紀のことであります。
宇多天皇から醍醐天皇。
後宇多天皇から後醍醐天皇。
そして、天皇親政。
古今和歌集には、時の権力者であった、藤原一族を婉曲的に批判する歌が多く見られます。天皇親政を目指したにもかかわらず、時の太政大臣であった藤原時平の陰謀にあって、まさに右腕であった、菅原道真を九州に島流しにされた怨念があるように思えてなりません。
そして後醍醐朝(1288年ー1339年)を遡ること約100年前に、後鳥羽上皇の命で、藤原定家を中心の藤原一族によって、新古今和歌集が第八集目の勅撰和歌集として1205年に成立しました。
勅撰和歌集というのは第1集の古今和歌集から、第8集の新古今和歌集、そして最後の第21集である、新続古今和歌集までありますが、勅撰でありますから、時の天皇もしくは上皇の命によって、編纂されるのですが、どうやら、その背後に、やはり権力争いがちらつくのであります。
たとえば、新古今和歌集に後鳥羽院御製の次のような歌があります。
いそのかみ ふるきをいまに ならこべし むかしのあとを またたづねつつ
いそのかみ とは 奈良天理市にあります石上神宮のことであり、布留(ふる)明神とも言って、物部氏一族を祀る神社であります。ふるきをいまに、は、その布留を指しておられるのです。そして、 ならこべし むかしのあとを またたづねつつ とは奈良時代の昔を偲んでいる、と歌っているのであります。
そして、新古今和歌集には、万葉の歌人、柿本人麻呂の派生歌が、たくさんの歌人によって歌われております。
ちょっと紹介しますと、
ながめても いかにかもせむ わぎもこが 袖ふる山の 春の曙(御鳥羽院製)
わぎもこが 袖ふる山の うす紅葉 それかとまがふ 秋の夕暮(御鳥羽院製)
わぎもこが 袖ふる山の 桜花 昔にかへる 春風ぞふく(藤原家隆)
幾千代ぞ 袖ふる山の 水がきも 及ばぬ池に すめる月影(藤原定家)
みんな、「袖ふる山」 を挿入した 柿本人麻呂の派生歌を歌っております。
石上神宮には、祭神の一人である布都御魂大神(フツミタマオオカミ)を表した鳥居のすぐ手前に、柿本人麻呂の歌碑が、今でもあります。
をとめらが 袖ふる山の 端垣の 久しき時ゆ 思ひき我は
「袖ふる山」 は柿本人麻呂の オリジナルなのであります。 袖ふる山 は袖を振る と聞こえますが、実は ふる山が 真意であり、ふる山とは
布留山のことを指すのであり、今でも布留山という名前の山が、この神社の後ろにあり、地名も、天理市布留町となっておるのです。
この布留という名前も、石上神宮の主祭神の、布留御魂大神(フルミタマオオカミ)から来ており、布留明神の謂れであります。そしてもう一人の祭神に、布都斯御魂大神(フツシミタマオオカミ)と言われる神が祀られております。
この三人の神こそ、国津神である出雲出身の、布都は須佐之男命の父、布都斯は須佐之男命(スサノオノミコト)、そしてその子供・布留こと饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の三代を祀っているのです。そして布留の長男が、物部の祖である宇摩志麻治命(ウマシマヂノミコト)であります。
国津神、つまり国譲りをさせられた、出雲一族の最高神が国常立命大神であり、実際の出雲王国をつくったのが須佐之男命であり、天津神系の日本書紀で、国常立命が宇宙創造神で、須佐之男命は、現天皇家の皇祖神・天照大神の弟で高天原(たかまがはら)を追放されたと書かれてあるのです。これはおかしな話しであります。
柿本人麻呂が、
八雲さす 出雲の子らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ 
と歌っています。
溺死した、出雲娘子(いづものをとめ)を、吉野の川で火葬した時のことを詠んだ歌であります。
なぜ出雲の娘の死体を、吉野の川で火葬するのでしょうか。
秋津野と言って吉野川に面したところは、昔から火葬の場であったようで、当時、火葬されるということは、罪を犯して死んだ者に対する葬り方であったのです。
吉野とは、言うまでもなく、後醍醐天皇が開いた南朝の場所であり、天武天皇が、大海人皇子のころ、近江の天智天皇の病床に呼ばれて、暗殺されそうになった時、吉野の山に逃げ込んだ場所であり、後に、物部一族の尾張氏の応援を得て、壬申の乱を起こした場所でもあります。
天武朝と天智朝とが 後に南朝と北朝とに分かれる遠因であると思われてなりません。
そして、明治維新による近代日本国家の誕生にも関係しているように思えて仕方ありません。
そのことを、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集が、暗示しているのではないでしょうか。
この700年代の末期から1200年代の初期の400年間に、大きな国の変化と共に日本語の変化があったと思われます。
どうやら、日本という国の歴史は、400年を周期に、大きく変わる特性があるようです。
それから、400年後の1500年から1600年代に、戦国時代を迎え、日本という国の形態が、大きく変わりました。1600年が関ヶ原の合戦の年であります。
そして、それから400年後が、2000年であります。
これから,また新しい日本が生まれ出てくる、それに合わせて、言葉も大きく変わっていくように思えてなりません。