第二十九章 石上神宮の不思議な呪文

奈良時代の末期に編纂された4500首にのぼる万葉集の歌の中で、袖ふる山として歌われている石上神宮は、聖徳太子と蘇我馬子によって、滅ぼされた物部氏の本拠地であります。
その石上神宮の本殿に祀られている主祭神が布留御魂大神と呼ばれていることから、この辺りを布留と言い、神社の後ろにある山も布留山という名で、そこから袖ふる山と歌われたのであります。
その布留の父が、出雲一族の祖である須佐之男命であり、布留も、神武天皇が大和朝廷を開く前に、この地を治めていた大王であったことが、日本書紀にも書かれています。
この石上神宮で、毎年11月22日に鎮魂祭が催されます。
この鎮魂祭が、史実に首をかしげさせる催しであるのです。
その前に、この神社の祭神を紹介いたしますと、前章で紹介いたしました、布留御魂大神、布都御魂大神、布都斯御魂大神の他に摂末社に祀られている、布留の長男の宇摩志麻治命、五十瓊敷命(イニシキニミコト)、白川天皇、木事命(コゴトノミコト)、市川臣命(イチカワノオミノミコト)と八神おられまして、この八神を鎮魂する為に、1081年に、白川天皇がじきじき参拝し、始められたものであります。
鎮魂するということは、祟りを恐れているから鎮魂する訳で、何故、この八神の祟りを恐れたのか、史実でははっきりしないのです。
現在、この神社の宮司をされている石川氏は、八神の一人で、初代の宮司である市川臣命の末裔なのです。
そして木事命は、市川臣命の父であり、春日臣一族であったのです。
春日臣は、五代・考昭天皇の御子である、彦天帯国押入命(ヒコアマオビクニオシイリノミコト)の末裔と由緒ただしい天皇の血を引いた一族であったのに、天武天皇の妃で、天智天皇の娘である持統天皇によって、春日臣の系図を没収されたという事件があります。
天武天皇は、物部、海部(あまべ)、尾張という、出雲王朝系の一族の支援を受けて、天智系から王朝を奪った天皇であります。
その妃の持統天皇が、出雲、物部の本拠地である石上神宮の宮司の、祖先の系図を没収することは、何を意味しているでしょうか。
日本書紀は、天武天皇の下命によって編纂を始めたのですが、天武天皇が存命中には完成せず、持統天皇と藤原不比等によって完成されたものであります。
わたしが、日本書紀は、天智朝の意図が働いた正書であると、前に申しあげましたのは、こういった背景があるからです。
そして、現天皇家は、天智朝の流れを汲んだ北朝系であることは周知の事実であります。
南北朝は、1336年から1392年まで約60年間続きましたが、1392年に明徳和約によって、それまで、天皇の証明である三種の神器を保持していた南朝の後亀山天皇より、北朝の後小松天皇に渡され、正式に100代後小松天皇が成立し、その後、南朝と北朝とが交互に天皇になる(賎睥)ことで合意したのでありますが、実際にはすべて北朝が継いできたと史実は言っております。
近代国家となった、明治維新以後の明治、大正、昭和、そして今上天皇は、明確に北朝系だとなっております。
何故、明徳和約は守られなかったのか、それは当時、室町幕府三代将軍、足利義満が、この和約を反古にして、自分が天皇になろうとしたと言われていますが、その真相は、はっきりしておりません。
しかし、そのことで現天皇家まで、北朝系が継いできたとなると、また新たな疑問が湧いてくるのであります。
明治維新で、徳川幕府が江戸城を無血開城した後、明治天皇が皇居として入城した際、皇居前に、楠木正成の銅像を置き、それ以後も明治、大正天皇共に吉野を訪問しておられることであります。
楠木正成は、後醍醐天皇側に付いて、足利尊氏と戦って討死した武将であります。
すなわち南朝側に与した武将が、北朝系の天皇によって銅像にまでして称えるとは、一体いかなる意味が隠されているのでしょうか。
何度も、申しあげますが、わたしは歴史の真相を検証しておるのではありません。
ただ、歴史の真相が日本語の変遷と表裏一体となっていることを強調したい訳でありまして、その時に、歴史の真相から、当時の言語で書かれた書物の意図が見えてくるからであります。
話は、石上神宮の鎮魂祭に戻りますが、この中の儀式で、まことに奇妙な神事があります。
「一二三四五六七八九十」と唱えつつ、「布留部 布留部 由良由良都布留部」と石上神宮の保存している国宝の「十種の神宝」を持って、呪文を唱え、生命の長寿を祈るのであります。
「ひふみよいむなやこと」と唱え「ふるへ ふるへ ゆらゆらとふるへ」と唱えるのでありますが、これは何を意味するのでしょうか。
現在の日本語の数の読み方である、
「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、と」
の語源になっている呪文でありますが、この語はヘブライ語から来ており、意味は同じ、1から10であるとするなら、どう思われるでしょうか。
天武天皇は、聖徳太子の血を引いていると言われています。
聖徳太子は、中国の、秦の始皇帝の末裔と言われている秦川勝や司馬達等ら渡来人を重用していました。
そして秦の始皇帝は、騎馬民族のフン族出身であり、ちょうど同じ頃、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの十支族が、忽然と消え去ったのであります。
一説には、シルクロードを通って中国に渡ったとも言われ、秦国家は、その十支族の一つのカドカイ族ではないかと言われています。
中国では、国王と言わずに、皇帝と呼ばれていますが、日本でも、天皇のことを帝(みかど)と呼ぶのは、このカドカイから来ているようです。
そうしますと、ヘブライ語をしゃべる古代ユダヤ人から秦の始皇帝、そして秦一族、聖徳太子、天武天皇と繋がりができてくると、ヘブライ語が、当時から大和言葉に入り込んでいた可能性が十分にあったのではないでしょうか。
そういたしますと、フル、フツ、フツシと呼ぶ神が、ちゃんと正式名があるにもかかわらず、表音的に表現され、しかも祭神名として使用されているのは何故でしょうか。
神道の神の名前は、何か現代日本人の名前とは、ルーツがまったくちがう外国人のような変わったものばかりであります。
歴代天皇の名前は謚(おくり名)で呼ばれていますが、それは崩御された後の名でありまして、一般人で言う幼名は、ほとんどの天皇の名は後代になって「○仁(○ヒト)」であり、先代の正式名は、まったく現代人では読むことが出来ない表音文字として使われた漢字であります。
初代神武天皇は神日本磐余彦命(カンヤマトイワレヒコノミコト)、
10代崇神天皇は御間城入彦五十瓊殖命(ミマキイリヒコイニエノミコト)
という、現代人の我々には、ちんぷんかんぷんの名前であります。
それぞれの国と申しますか、民族と申しますか、厳密に言えば、言語によって、名前の特徴があって、名前を聞くだけで、何語を使っている、民族国家か判ります。
たとえば、ロシア語を使う国は、○○スキー、とか××ノフ、という姓が多い。そして名はその言語の発音特性だけで、彼らの信仰する宗教のバイブルに出てくる祖先の名を取っている場合がほとんどであります。ロシア語でミハイルは、英語でマイケルであり、フランス語でミッシェルであるといった具合であります。
韓国では、姓がほとんど金(キム)であり、名で判断するしかない。これなどは天皇家が姓がなく、名前だけで、しかも、ほとんどが先代では「彦・・命(ヒコ・・ミコト)」、後代では「○仁」で、これは命名するとき苦労すると思いますが、韓国人の名前をつけるのと同じ特性を持っております。そして韓国では、姓はほとんど「金」で片付けてしまう。一方天皇の姓と言ってよい正式名は、まったく読むことさえ困難な名であります。そして、その特徴は、男性には「命(ミコト)」と最後につける。そして「彦(ヒコ)」も多くみられる。そして「○仁(ヒト)」。
いっぽう、女性には、「姫(ヒメまたはヒミ)」「巫女(ミコ)」そして「卑弥呼(ヒミコ)」。
そうしますと、最後の音節に「ミコト」で間に「ヒコ」がつくと男性、それが後代になって「ヒコ・・ミコト」が縮まって「ヒト(仁)」になった、「コ」がつくと女性を表現するのではないかと推論したくなるのであります。その名残が女性の名の最後に「子(コ)」をつけたのではないか。
これらの音節から何を想像されるでしょうか。
「ひふみよいむなやこと」であります。
特に「コ」は女性。「ヒト」は男性。
「ヒト」は天皇家で今も守られておりますが、一般女性の名で「子(コ)」が消えつつある。これは何を意味するのでしょうか。
わたしは、いろいろな思いを広げてみるのであります。