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第三十三章 自己をならふ 仏道をならふといふは、自己をならふなり。 自己をならふといふは、自己を忘るるなり。 自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。 万法に証せらるるといふは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむなり。 悟跡の休歇なるあり、休歇なる悟跡を長々出ならしむ。 万法すすみて、自己を修めるは、悟りなり。 現代風に、わたしなりに解釈いたしますと、 肉体が死んで土に帰りますと、「想い」だけが肉体から離れざるを得なくなります。 この世に生を受けた時は、逆に「想い」が肉体の中に入っていきます。 それでは、その「想い」は、肉体がいない時には、何処にいるのか。 ここで、唯物論者は、「想い」も消えて無くなると考えます。そうかも知れません。わたしもまだ死んだことがありませんし、生まれる前の記憶もありませんので、分かりません。 一方、肉体が死んで無くなると、その容器に入っていた「想い」は行き場所を失って、さ迷います。その期間が49日と言われているのですが、生まれる前にも実は49日の間、「想い」の居場所がない期間があります。そして49日が過ぎると、元々いた場所に帰っていきます。その往復の道を仏の道というのです。その仏の道を忘れて、さ迷って地獄に落ちるとか昔から言われていますが、その考え方に対しては、わたしは唯物論を取っております。 来た道を、みんな、帰っていくと思います。 ただ、その道は、生まれて「想い」が肉体の中に入ると、肉体の中では脳が記憶を受け持っていますが、そこに記憶されずに他の場所に記憶されているため、忘れてしまうのです。しかし肉体が死にますと、また思い出して、来た道を帰っていきます。 ただ生まれた時と死ぬ時では、「想い」が数十年の肉体での生活で得た経験を積んでおりますから、かなり変貌しています。 そして、その経験が、帰る際の土産となるのです。そこに良い「想い」の土産か、悪い「想い」の土産かで、帰り道の困難さは大きくかわります。 そういたしますと、出来るだけ、軽い良い「想い」を土産として持って帰りたいのは人情であります。土産が重いか軽いかは、肉体にいる時の、経験の蓄積で決まります。 人に喜びをたくさん与えている人は、良い軽い土産で、帰り道もルンルンであるでしょう。 人に哀しみばかりを与えている人は、懺悔の念でいっぱいの悪い重い土産になって、帰り道は大変な苦労をするでしょう。 その違いによって「想い」の肉体生活していた時の思い出の内容が大きく違って、良い思い出の「想い」は、また行ってみたいと思うでしょう。 それなら、肉体の中にいる間に、良い土産をたくさんつくって、悪い土産は出来るだけつくらないことが大切なことになります。 その方法を知ることを、「仏道をならふ」と言うのであります。 すなわち、どうしたら他人(ひと)に喜びを与えることが出来るかの方法論を学ぶことを言う訳です。 自分に喜びを与えることも当然必要でありますが、そのためにはまず、他人に喜びを与えることなのです。その為には、まず自分という考え方をしていては出来ません。 自分を捨てることが出来ないと、他人に与えることは出来ません。 それを、肉体の中に「想い」がある時に、自分を捨てることが出来るか、脱落させることが出来るか、そこが生きながらにして悟れるかどうかのポイントであります。 更に、そのポイントは、どんな人間でも、一瞬一瞬には悟っているのですが、継続した悟りでないと、良い土産をたくさんつくることが出来ないのです。 継続した悟りを得るには、自分を捨てるしかない。 と言っているのだと思います。 この文は、鎌倉時代初期の禅僧で、曹洞宗の開祖・道元禅師が、自ら書き上げた大著「正法眼蔵」の有名な一節であります。 道元禅師が、生まれた1200年の5年後に、後鳥羽上皇の下名で新古今和歌集が成立しました。 奈良時代末期から平安時代の初期の頃には、空海、最澄といった高僧が輩出したのと同じで、古い時代から新しい時代への、今流で言えば、パラダイムの変換時には、傑出した人物が出てくるようであります。 道元禅師も、空海、最澄と同じように、23才の時に、当時の中国を統一した宋に留学しました。 宋から、帰国するとすぐに、悟りを得るには、ただただ坐禅をする(只管打坐)という教えを以って、曹洞宗を開き、44才の時に、越前に大仏寺(現在の永平寺)をつくり、坐禅の道場として、現在に至るまで、その只管打坐に打ち込む禅僧が、世界から集まって、日々厳しい修行に励んでおります。 そして「正法眼蔵」という、非常に難解でありますが、大作を書き上げたのです。 その中でも、最も有名な一節が、この文であります。 特に、 「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るるなり」 がすべてを語っております。 わたしなりの現代訳にしますと 「自己を忘れるということは、考えないようになるということです。 考えないようになるには、常に現在この瞬間にいるということです。過去のことや、未来のことに想いを馳せると、この瞬間におれなくなる。つまり考えておる訳です。 ちょっとでも過去や未来に想いを馳せて考えていたら、無条件に、現在この瞬間に帰ることです。 そして、現在この瞬間にできるだけ多くいるように心がけることが、悟りへの道であります」 「自己をならふといふは、自己を忘るるなり」 これが、大和言葉の表音的表現であります。 「不思慮底思慮 是即非思慮」 これが、漢文の表意的表現であります。 |