第三十五章 家紋の歴史

家紋というものは、元は、朝廷貴族(公家)が、牛車に乗って内裏(すなわち御所の天皇の住まわれている処)に参内する時に、他の家の牛車との識別の必要性から生まれた文様が、始りであります。
その公家たちが、江戸時代に入って財政困難に陥ってしまいます。
江戸時代に入って、公家たちが、財政的に困窮するようになった原因は、三代将軍・家光が採った、諸法度に基づいての各藩への締め付けが、影響しているのであります。
参勤交代を、毎年するだけでも、莫大な費用がかかる。
そう致しますと、各藩主が、今までパトロンとなって、公家たちに献上していた金品が極端に減ってしまったのです。
ある藩主が、家光による、お家取り潰しをされた時に、

ひかるもの ひがしひがしへ うつりける

と詠って、嘆いています。
こういった、徳川幕府だけが、肥っていく状況は、八代将軍・吉宗の時代に幕府も財政逼迫を余儀なくされて、享保の改革が為されたとありますが、これは疑わしい史実だと思われます。
こういった公家たちの財政困難から、背に腹は変えられない状況で自分たちの家紋を、まず大坂や京の大店に売ったり、借金の片がわりに譲ったりしていたのであります。
それが、現在、各一般の家でも家紋を持つようになった始りであります。
家紋と共に、屋号というのも大店につけられたもので、家紋と一対になってきた訳です。
越後屋は今の三越百貨店の前身。大文字屋は今の大丸の前身といった具合であります。
江戸時代までは、一般大衆には姓をつけることは許されていなかったのです。
その替わりに、お金を持つ大店などは、家紋と屋号で姓の替わりをしていたのです。
紀伊国屋文左衛門が有名でありますが、やはり断然多いのが、京都に近い、今の滋賀県である、近江出身者であります。
呉服の商いをしている京都の店は、ほとんど近江出身であります。
現在の関西系総合商社はほとんど近江から生まれています。
伊藤忠兵衛は丸紅の創始者。
飯田新七は高島屋の創始者で、その後、一時期、丸紅と合体して丸紅飯田を創りました。
ふとんの西川で有名な、江戸日本橋に今でもあります山形屋は、西川甚五郎が創始者であります。
こういった、大店に公家たちは家紋を譲っていった訳ですが、平安時代には、家紋で家名が分かり、家名が分かれば、身分が分かるようになっていました。
しかし、公家が政治の実権を武家に奪われてから、家々の家格や家業が定まって来て、それぞれの専門的な得意芸で家元制ができていったのです。
家業には、楽器、書道、料理などがその姿を今も残しております。
また、公家の格によって官位も決まっておって、
摂政・関白には、近衛・九条・二条・一条・鷹司の5家しかなれませんでした。
三条・今出川・花山院・徳大寺・西園寺・久我・醍醐・広幡の9家は摂関にはなれませんが、太政大臣・左大臣・右大臣・近衛大将にはなれるといった具合だったのです。
従って、現代の商いの原点には、武家よりも公家の方が大きく関わっていたことが判ってくるのです。
それが、商人の言葉が、公家たちの使う言葉に非常に似ている理由であります。
そして、公家たちが使う言葉が、本来のやまと言葉でありますから、現代の日本語のルーツであるやまと言葉は、商人の中に生きているのです。