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第四十六章 昭和文化と日本の最期 昭和時代の64年間は明治時代の44年間を上回る波乱の時代だったと言えるのではないでしょうか。 日本という国は世界でも稀有な国家と言えるでしょう。 万世一系と言われる世界屈指の長い歴史を誇る天皇家が親政をひくと国に混乱が生じる。 天皇が権威だけで、権力を持たないと平和が続く。 それと同じ現象が自然現象においても起こる。たとえば世が安定しているときに天変地異が起こる。世が混乱しているときは天変地異は起こらない。 この自然の法則が人間社会にも毅然と適応される。このことを考慮しないで、歴史の検証など有り得ない。前章でも申しあげましたが、これがわたしのすべての考えの原点であります。 たとえば日本という国が、大和朝廷として実質安定した国家となったのが、第10代崇神天皇の時代であります。いわゆる古墳時代の始まりですが、それが4世紀末なのか、4世紀初頭なのかが、古代遺跡研究の最大の謎となっておるのです。 崇神天皇稜の前方後円墳のすぐ近くに箸塚古墳という日本で一番古い前方後円墳がありますが、この古墳が4世紀末に造られたのか、4世紀初頭に造られたのかによって、古代大和朝廷のルーツである卑弥呼の邪馬台国が九州にあったのか、畿内にあったのかという謎に決着をつけられるのです。 ただ、大和朝廷という統一国家が安定したのは崇神天皇の時代からであることは間違いはないでしょう。 その崇神天皇の時代に大規模な疫病が発生しました。その疫病を鎮めるために建てられたのが、日本最古の大神(おおみわ)神社であります。 人為的安定があると、天災が起こる。人為的混乱があるときは、天災は起こらない。 これは天の配剤としか言いようのない霊妙なる当意即妙の計らいではないでしょうか。 明治維新後、文化の中心は徐々に東京に移っていきますが、その中でも当意即妙なる天の計らいがあったようにわたしは思えて仕方ないのです。 東京が現在の繁栄を誇る大都市になるまでに、三回の試練を受けています。 一回目は明治維新であります。この時に前にもお話しいたしましたように百万人いた江戸の人口が明治初期には60万人に半減しているのです。 二回目の試練は大正12年に起きた関東大震災であります。 明治中期から飛躍的な人口の増加を辿って、震災前には4百万人に膨れあがっていたのが、震災後、激減しています。 三回目は、昭和20年の敗戦であります。昭和17年に東京府・東京市から東京都・35区になった時に約8百万人になって膨れあがっていた人口が、敗戦後270万人に激減しました。 この三つの試練を乗り超えて現在の1千万人を超える大都市になったのであります。 それだけ、人の移動流入が激しい東京は、新陳代謝の活発な都市に変貌していき、戦後の日本文化の中心になっていきました。 いっぽう、その間、西の大阪・京都はどうなっていったかといいますと、昭和30年ぐらいまでは、東京と大阪の人口は2割程の差しかなかったのが、その後大阪は神奈川にも抜かれてしまう始末で、いよいよ日本は東へと集中していったのであります。そしてバブル発生を迎えるのです。 バブルで湧いたのは当然東京がダントツだったのですが、大阪を中心の関西でもバブルで湧いたのです。これは関西の関東に対する意地の顕れであって、それだけ無理をしたのです。 そしてバブルがはじけた結果、答えは明白であります。大きく傷を受けたのは関西でありました。もちろん東京でもバブルのはじけの影響は甚大なるものがあったのは当然でしたが、そこでも政府が東京だけに救いの手を差しのべたのであります。 現在の政府の不況からの脱出シナリオを見ていましても、東京さえ回復すればいいとしか思っていないようです。 東西の均衡が保たれて初めて国家の安泰が得られるのが、古代からの日本の史実であります。しかもそこには自然の妙なる摂理が働いていて、むかしの人々はそれを知っていたのです。 ところが、現在の日本は自然の妙を無視した人為的方策ばかりに腐心しております。 阪神大震災が起きたのも、わたしには日本人に対する天からの警鐘のように思えてなりません。 戦後の東京集中の日本文化は、そういう点では人為的要素が極端に入った文化だと言えるでしょう。 そもそも文化というものは、人間が天・自然と同化してつくりあげていくものですが、それが現在の日本から完全に忘れられているように思えてなりません。 日本の最期を見たくないものであります。 |