終章 新田論の世界

わたしは、この1年いろいろな本を書いてきました。
小説、随筆、詩、哲学、童話、しかし、自分の歴史つまり自叙伝や歴史書だけは書きませんでした。いや書けなかったと言った方が正しいでしょう。
だから、大胆不敵にも「神の自叙伝」なるものを書いてしまったのです。
自叙伝を書くことの出来るのは、宇宙を支配する「想い」以外資格がないと思っているからです。それ以外のものは、すべて宇宙の「想い」に動かされているだけのロボットみたいなもので、まさかロボットが自叙伝を書くのもおかしな話しであります。
「NOBUNAGA」を書きましたが、これは歴史小説ではありません。
あの中でわたしの書きたかったのは最後の二章だけで、それまでの章はすべてプロローグでしかありません。いかなるプロセスでも構わないのであります。
ゴールのエピローグさえ表現出来れば、それでいい訳でした。
この「日本語が壊れていく」も同様であります。
自分の世界観を、いろいろな形で表現したかったのです。
世界観というものは、個人が持っているユニークなものであります。
世界観を共有することは不可能なことです。
ところが、人間は世界観を共有しなければならないと思っておられる方が非常に多いのではないでしょうか。
すべてのものは、確率分布的に宇宙世界で存在しております。
そして、その分布要素は必ず二元論で成り立っています。
つまり、確立論で申しあげますと、質と量の要素が二元的に正規分布しておるのです。
平たく言いますと、質の良いものと悪いもの、量の多いものと少ないものが反比例しており、その配分はマジョリティーが97%、マイノリティーが3%であるということであります。
量の多いものは、質的にも平均である。
質の良いもの・悪いものは、量的には少ない。
そして質的要因の強いものは、量的には少ないから、量的に多いものを食って生きておる訳です。
問題は質の悪い、量の少ないものであります。
XY軸座標で言えば、第4象限の負と負のダブルの類であります。
三島由紀夫は第1象限の正と正。
もうひとりの人物は第4象限の負と負。
わたし新田論の世界観は、この第4象限の生き物に対する怒りと鉄槌の仕置きであります。
人間社会では、この第4象元の生き物が希少価値とその狡猾さで、第2、第3象元の数の多い人たちを、時にはたぶらかし、時にはおどかし、この世的成功を収めておるのが現実ではないでしょうか。
この生き物たちに鉄槌を加えることの出来る人間になりたい、またそういう精鋭をできるだけ1.5%の中から発掘したい。その為にこの50年あまりの人生に鞭打ってきたのであります。
既に、この世におられない、三島由紀夫、寺山修司、両氏のような人が、今生きておられたら、新田論は、すべてをなげうって翔んで行くことでしょう。 


平成十三年一月二十七日       新  田    論