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第六章 十七条憲法―5 「五に曰く 餮(てつ)を絶ち、欲を捨てて、明らかに訴訟を弁ぜよ。其れ百姓の訴えは、一日 に千事あり。一日すら尚爾(しか)るを、況や累歳をや。頃(このご)ろ、訴えを治む もの、利を得るを常となし、賄を見て?(げん)を聴く。すなわち財ある者の訴え は、石を水に投ぐるが如く、乏しき者の訴えは、水を石に投ぐるに似たり。是を以 って、貧民は則ち由るところを知らず、臣道も亦、焉(ここ)に於て闕(か)く。」 餮(てつ)とは貪り食らうことであり、裁判官は事に当たり、貪り食らう心を捨てて、公明正大に人民の訴訟を裁かねばならない。人民の訴えというものは、日々たくさんあるから、年月を重ねると、多くの事件が堆積する。 このごろの裁判官は、私利をはかることを常とし、賄賂の多少によって、裁判を手加減しておる。財産のある者の訴えは、ただちに有利に判決をしてやり、貧しい者の訴えは、一向手ごたえがない。それでは貧乏人たちは頼るところがなくて、結局臣たる者の道も立たぬことになる。 この法が今から約千四百年前につくられたとは思えないほど、身近に感じるのは何故でしょう。 つまり、真理は時を超えるものだからと思うのです。 科学が発達して、いろいろな機械文明が興っても、人間の考え、行動することは千年以上経っても変わらないということではないでしょうか。 人間の欲、煩悩は昔も今も変わらない。 それなら、想いも変わらない。 それなのに、外部環境だけが刻々変化していくと、人間にどういう変化が起こってくるかと言うと、現実と想いのギャップがますます大きくなって、精神が分裂していくわけです。 現代人の大半は程度の差こそあれ、精神が分裂しているのです。 特に頭つまり考えと、体つまり行動との間に大きなギャップが生じると、人間はどうなるかというと、結局、感情の発生源である行動がより本能的になり、動物が本来持っている、凶暴性が表面に出てくる。 それが、時には暴力で、時にはヒステリックな言葉で攻撃してくる凶暴さを発揮する。 それが、現代のような世情になると、ヒステリックな言葉による凶暴さを発揮する職業が流行ってくる。 それが、弁護士という、六法全書を武器にした暴力団まがいが幅を利かしてくることになるのです。 まさに、ここで指摘されている、「財ある者の訴えは、石を水に投ぐるが如く」になって、「乏しき者の訴えは、水を石に投ぐるに似たり」になる悪徳弁護士が闊歩する世になるわけです。 この悪徳弁護士も日本語を壊していく類のひとつであります。 |