第八章 十七条憲法―7

「七に曰く
  人、各々任あり。掌(つかさど)ること宜しく濫(みだ)れざるべし。其れ賢哲 官に
  任ずれば頌(しょう)音則ち起こり、奸者官を有(も)つときは、禍乱則ち繁し。世に
  生知(苦労せず自然に頭がきくこと)少(まれ)なれども、尅(よく)念(おも)えば聖
  と作(な)る。事 大小となく、人を得れば、必ず治まり、時 急緩となく、賢に遭え
  ば、自ら寛なり。此に因りて、国家永く久しくして、社稷(しゃしょく)危うきこと勿(な)し。故に古(いにしえ)の聖王は、官の為にして以って人を求め、人のために官
  を求めたまわざりき」


官吏というものには、それぞれの任務がある。これを乱してはならない。賢明な人が官に任ずれば、人民から礼賛が起こるし、反対に、奸邪な者が役職につけば、いろいろな禍や乱を生じる。世に生知(自然によくできる)の人は少ないが、よく考えて、立派にならねばならない。また事も大小となく、適所に適材を得たならば、必ず治まるものであり、また世の中が無事の時でも、非常の時でも、賢人が政治の衝に当たったならば、おだやかに治まる。これによって国家は永続し、世の中は安泰である。そうであるから、古の聖王は、官のために人材を求められたのであって、決して人のために官を求めはしなかったのである。


ここにある最後の言葉「故に古の聖王は、官の為にして以って人を求め、人のために官を求めたまわざりき」が非常に大切なことだと思うのです。
西郷隆盛の有名な言葉である、「人を相手にせず、天を相手にする」ことと同じ意味であります。
人間のいさかいや喧嘩の発生原因のほとんどは、人を相手にするからであります。
たとえば、よくある骨肉の争いは、当初は兄、弟としてそれは仲むつまじく、おたがい協力して、相手を想いやり、一家のために手をつなぎあっておるのが、死というものを意識しだす年齢に達すると、自己子孫保存本能欲がもたげてくる。そうすると自分の種を引き継いでおる子供に重点がいき、結果、弟の存在が邪魔になってきて、以心伝心、弟も微妙な兄の変化を察し、そこからお互いの間に相克が生まれる。
これが、骨肉の争いの根本原因であります。
歴史に登場する人物は、形態は異なれど、この世的成功を収めた人物がほとんどと言っても過言ではありません。
その歴史の中で太子の憲法を知らない人物はいなかったと思います。
知っていながらも、結局は骨肉の争いを展開する。
太子から言えば、賢人ではなかったということになるでしょう。
極論になるかもしれませんが、歴史上の大人物というのは、多くは賢人ではなかったことになります。賢人ではないということは、愚かだということであります。
愚かな人物を礼賛しているのが歴史だとなると、歴史というものを根本的に見直す必要があるのは当然であります。
現在起こっていることも、将来、歴史の一頁になります。そうすると、現在、この世的成功を収めている人物も愚かな人物がほとんどということになります。
政治家、高級官僚、大企業のトップ、事業成功者、お金持ち、その他。
結局、この世的成功者とは、自己の利を多く得た者であり、人に利を与えず、人から利を奪った唯物主義的に生きた人間であるわけです。しかし自分では、唯物的とは思っておらず、かえってそういう人たちに、唯心的仮面を被った人が多い。それが歴史的評価として人為的に創作されておるわけです。
いっぽう伝説は、人間社会の底辺での出来事をベースに伝えられてきたものです。
歴史の表舞台に出せば、歴史を創作しておる権力者から圧力を加えられる真実だから、密かに口から口へ、活字という証拠を残さずに伝えられてきた本当の出来事なのです。
この真理を、よく理解して頂きたいと思うのであります。
本当の賢者は、世の表舞台には絶対出てきません。
世の表舞台に出てくるのは、賢者の仮面を被った愚者たちであります。
そう言いながら、こう言った意見を吐いておるわたしも表舞台に出ておるわけで、そこに自己矛盾を感じている。だからわたし新田論は透明人間にならなければならない。
この意見を書いておるのは新田論ではなく、天が書いておるのであって、新田論は天のペン役に過ぎない。
だから、新田論は決して姿を現さない透明人間であります。
「官(天)の為に人材を求め、人のために官を求めてはならない」のであります。