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第百二話 絶対と相対 新田哲学では、相対的なものはすべて実体のない単なる概念、つまり、「考え方」に過ぎないと言っています。 宇宙といったマクロの世界から、人間といった生命体のミディアムの世界、そして、素粒子・原子・分子といったミクロの世界まで貫く、いわゆる運動の世界には三つの法則が働くとお話してきました。 (1) 「二元論」 (2) 「全体と部分の相対性の法則」 (3) 「在り方と考え方」 言い換えれば、運動の世界とは映像の世界であり、映像は実体がないが映像を映すためには必ず実体がある。 平たく言えば、動画(アニメーション)という映画(映像)を映すためには静止画というフィルム(実体)がある。 つまり、「運動」が映像であり、「静止」が実体である。 必ず、「実体(静止)」と「映像(運動)」の二つがあるから「二元論」と呼ぶ。 必ず、「実体(全体)」と「映像(部分)」があるから「全体と部分の相対性の法則」と呼ぶ。 必ず、「実体(在り方)」と「映像(考え方)」があるから、「在り方と考え方」と呼ぶ。 総称すると、 必ず、「実体(絶対一)」と「映像(相対二)」があるから、絶対性理論と相対性理論があって、相対性理論だけでは「映像」の世界、つまり、「二元論」の一方(好いとこ取り)だけしか語れず、「全体と部分の相対性の法則」の一方(部分)しか語れず、「在り方と考え方」の一方(考え方)だけしか語れず、ましてや、「実体」のない「映像」の方しか語れないわけで、絶対性理論で以ってはじめてすべてを語れると主張しています。 わたしたち人間だけが、この相対性の世界を唯一の現実世界だと錯覚しているから、実体あるものが見えず、見える映像を実体あるもの、すなわち、現実だと勘違いしているのです。 錯覚(勘違い)を証明している例として、わたしたちは夢を見ている間は夢を現実だと錯覚(勘違い)しているが、目を覚ますと現実ではなく夢だったことに気づく一生を送っているではないですか。 知性ある、つまり、「考える葦」である、わたしたち人間は「考え方(映像)」を「在り方(実体)」と錯覚(勘違い)して生きていることがわかります。 相対性理論という「考え方(映像)」を「在り方(実体)」と錯覚(勘違い)して生きている。 絶対性理論に基づいて生きなければ、錯覚(勘違い)の人生から脱出することはできません。 死を怖れ、生に執着する。 病気を怖れ、健康を願う。 貧乏を嫌い、お金持ちを好む。 不幸になることを嫌い、幸福になることばかり考える。 こういった錯覚(勘違い)が、わたしたち人間だけに悩み、四苦八苦の人生を送らせているのです。 お釈迦さんは、悩み、四苦八苦の原因は煩悩、つまり、欲望にあると言われましたが、その欲望がどうして生まれるのかが判明しないと対策の打ち様がない。 お釈迦さんは、その対策として「八正道」を説かれました。 つまり、正見(正しく見る)・正思惟(正しく思う)・正語(正しく語る)・正業(正しく行う)・正命(正しく生きる)・正精進(正しく努力する)・正念(正しく念ずる)・正定(正しく瞑想する)が煩悩を断つ生き方だと言われたのですが、わたしたち凡人は何故そうしなければならないのかを理解できなければ到底実行できません。 死を怖れ、生に執着することが間違った生き方で、死も生も超越した時はじめて、生も死も無い生き方ができる。 病気を怖れ、健康を願うことが間違った生き方で、病気も健康も超越した時はじめて病気も健康も無い生き方ができる。 貧乏を嫌い、お金持ちを好むことが間違った生き方で、貧乏もお金持ちも超越した時はじめて貧乏もお金持ちも無い生き方ができる。 不幸になることを嫌い、幸福になることばかり考えることが間違った生き方で、不幸も幸福も超越した時はじめて不幸も幸福も無い生き方ができる。 それが正しい生き方であることを理解できれば実行できるのです。 そのためには、一方的な見方、つまり、「考え方」しかできない相対性理論では、この真理を理解できないわけであって、そういった一方的な見方、「考え方」を、「好いとこ取りの相対一元論」と新田哲学では言っています。 (1) 「二元論」 (2) 「全体と部分の相対性の法則」 (3) 「在り方と考え方」 つまり、両面性を超えた絶対性理論を主張する所以です。 従って、 人間社会だけの相対進化論も一方的な見方であり、マクロの世界からミクロの世界まで貫いた絶対進化論を主張する所以です。 平たく言えば、人間の歴史だけで真理などわかるべくもなく、他の生き物も含め、地球全体も含め、太陽系も含め、宇宙全体も含めた歴史を知らずして何を語ることができるでしょうか。 |