第百三話 相対性理論と絶対性理論−(その2)

アインシュタインの相対性理論で「時空の世界(The world of time and space)」という言葉が生まれました。
つまり、「時間と空間」がある世界と言うわけです。
「空間」というのは、わたしたちが存在する立体の世界と考えたらいいでしょう。
たとえば、ここに水の入っているペットボトルがある。
ペットボトルは立体物ですから、「空間」です。
わたしも立体物ですから、「空間」です。
わたしが水を飲みたいと思ってペットボトルを取りに行きます。
わたしが水を飲みたいと思ったら、もう既に水を飲んでいるわけではありません。
その間に、ペットボトルを取りに行く動作、ペットボトルの栓を開ける動作が要りますから、水を飲みたいと思ってから、水を飲むまでの間に時間が掛かっているのです。
わたしという立体と、ペットボトルという立体の間に「水を飲む」という動作をするためには、「時間」が掛かっているわけです。
つまり、「運動(動作)」するには「時間」が要るのです。
言い換えれば、「生きる」ことには「時間」が要るのです。
「生きる」ということは「一生」ということです。
だから、「一生」は「時空の世界」だと言うわけです。
『現在』を境にして、『過去の一生』と『未来の一生』があるわけです。
物理学の世界で「三本の時間の矢」というものがあり、その一本が『過去・現在・未来』で称せられる「心理的な時間の矢」というもので、過去から未来に向かっての一方通行ですから、過ぎ去った過去を取り戻すことはできないし、未だ来ぬ未来を引き寄せることもできない、つまり、立体物にとってはどうすることもできないのが「時間」である。
だから、「立体」、つまり、「縦*横*高さ」という三次元の上の四次元要因に「時間」が君臨する世界が「時空の世界」だと言うわけです。
そして、その前提条件になるのが「光」の存在であって、「光」よりも速い物は一切ないというわけです。
だから、
1光年先の星を見た時には既に1年経っている過去の星しか見えない。
太陽を見た時は既に8分経っている過去の太陽しか見えない。
月を見た時は既に2秒経っている過去の月しか見えない。
ペットボトルを見た時は既に何億分の1秒経っている過去のペットボトルしか見えない。
すなわち、自分以外の物はすべて過去の物であって、現在の物ではないということになります。
自分という「立体」と他の物という「立体」の間には必ず「時間」が立ちはだかっている。
二つの「立体」の間、つまり、「空間」には必ず「時間」が立ちはだかっている。
相対性理論の核になっている「考え方」ですが、飽くまで「相対」、つまり、「二つの物」の間には「運動」が生じるという、「運動の世界(宇宙)」の話なのです。
自分の居るところは『現在』。
他の物の居るところは自分にとっては『未来』、逆に相手の立場になれば『過去』になって、自分と他のすべては同じ世界に絶対に居ることはできない。
「運動の世界(宇宙)」とは、自分独りだけが『現在』に居て、他のものはすべて『過去』若しくは『未来』に居る。
つまり、自分だけが実在で、他のものはすべて映像となります。
ところが、わたしたちは、自分も他のものもすべて実在と思っている、つまり、同じ世界に居ると思っている。
すべての物は相対である。
アインシュタインの相対性理論の骨子ですが、これは飽くまで「運動の世界(宇宙)」の話であって、「運動の世界(宇宙)」は映像の世界であって、映像の世界が映っているということは、必ず、映写フィルムという静止の世界(宇宙)がある。
静止画フィルム、つまり、映写フィルムが無くて映画を映せるわけがない。
自分独りだけが『現在』に居て、他のものはすべて『過去』若しくは『未来』に居るなら、同じ世界に居ることになります。
何故なら、『過去・現在・未来』は繋がっているのですから。
自分独りだけが居るのは、『過去』に繋がっている『現在』でもなく、『未来』に繋がっている『現在』でもない、まったく別の世界なのです。
それが、『今、ここ』であり、『静止(絶対)の世界(宇宙)』であり、自分独りだけなら『自分は・・・』という意識も要りません。
『自分は・・・』という意識は所詮、相対(運動・映像)世界の話です。
相対性理論は映像(相手)の世界だけしか論じていない。
実在(自分)と映像(相手)の世界を論じているのが絶対性理論なのです。
アインシュタインが宇宙の果ての世界、つまり、静止宇宙は神の領域だと言ったのですが、結局は真理を知っているのは神だけであると言っているわけです。
わたしたちは、所詮、映像の世界で振り回されているだけなのでしょうか。