第百十一話 了見違いの人間

「光」を絶対者(神=C=Constant=一定)とし、『過去・現在・未来』という実は光景(空間)を「時間」という四次元要因に仕立て上げて、わたしたち人間を代表にした三次元立体の「空間」を支配させたのが相対性理論に外ならない。
実は「時間」など実在しないで、実在するのは「空間」だけであったわけです。
一次元、二次元、三次元、四次元・・・といった「次元」など実在しないで、実在するのは立体である「空間」だけであったわけです。
一次元の「線」も、二次元の「平面」も、四次元の「時間」と同じように、人間が勝手に捏造した概念に過ぎなかったわけです。
従って、立体である空間が三次元と定義するのも、人間が勝手にしただけのことであります。
線や平面や立体とは、算数や数学という人間が勝手につくった学問の中で、「長さ」や「面積」や「体積」や「重さ」を計算する方便に過ぎず、要するに、科学の世界観の便宜上のものに過ぎないのです。
「長さ」や「面積」や「体積」や「重さ」を数字で把握することで、いろいろ便利なものや、快適なものをつくることができたのは文明の功的側面ですが、その反面、地球環境問題や地球温暖化問題を生み出したのも、いろいろ便利なものや、快適なものをつくることができた文明の罪的側面であります。
その前提には、科学は“まゆつばもの”の宗教と違って、客観性事実を追求する“信頼性のある”ものだと、わたしたち現代人が盲信している点にあります。
若しも、科学が宗教と同じ“まゆつばもの”であるとするなら、科学の世界観の便宜上のものに過ぎない、計算する方便の「長さ」や「面積」や「体積」や「重さ」といった定義も“まゆつばもの”になり、算数や数学といった学問も“まゆつばもの”になり、結局の処、科学自体が“まゆつばもの”である点に円回帰します。
逆に言えば、科学を客観性事実を追求する“信頼性のある”ものだと盲信するから、科学の世界観も盲信し、「長さ」や「面積」や「体積」や「重さ」といった定義も盲信し、算数や数学といった学問、つまり、科学も盲信することになっているだけのことです。
前提が崩れたら、すべてが崩れます。
近代・現代が生んだ科学は、古代・中世が生んだ宗教を打破するためのものであったことを忘れてはなりません。
古代ギリシャ時代には科学も哲学の一部に過ぎなかったことを忘れてはなりません。
つまり、科学も所詮は哲学、つまり、「生き方」の学問、つまり、宗教と同質であることを忘れてはなりません。
科学だけが客観性事実を追求する“信頼性のある”ものではないことを、決して、忘れてはなりません。
地球環境問題、地球温暖化問題が科学の為せる業であることは間違いない。
人間だけの利便性、快適性を追求する科学が地球環境問題、地球温暖化問題を起こしたのです。
これは何を示唆しているのか。
“人間だけの利便性、快適性の追求は、人間以外のものの不利便性、不快適性の追求になっている”
“人間だけの利便性、快適性の追求は、地球自体の不利便性、不快適性の追求になっている”
新田哲学風に言えば、
“人間だけという部分観の利便性、快適性の追求は、地球という全体感の不利便性、不快適性の追求になっている”
部分観こそが元凶であり、わたしたち人間も他の生き物と同じように、全体感で生きなければならないのです。
人間だけが万物の霊長で、他の生きは畜生であるという了見が、そもそもの問題であるのです。
他の生き物には地球という後ろ盾がいることを忘れてはなりません。