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第百十二話 錯覚(勘違い)の元凶 宗教も科学もその発生動機において同じ穴の狢であります。 「光」を絶対者(神=C=Constant=一定)の地位に置き、その下に『過去・現在・未来』という「時間」を置き、更にその下に「空間」という現実(?)世界(宇宙)を置くことによって、「空間」に存在するものはすべて、「時間」と「光」に支配されることになったわけです。 この考え方は宗教も科学もまったく同じです。 表現の仕方が違うだけで、宗教では、「光」を神にし、「時間」を輪廻転生する魂と表現し、「空間」を肉体と表現しただけです。 この錯覚(勘違い)の元凶が、止まっている「空間」である『過去・現在・未来』を動いている「(実)時間」と信じ込み、動いている自分を止まっている「空間」と思い込んでいる点であります。 自分とは、『今』という本当の「(虚)時間」と一緒に動いている『今の自分』に外ならず、『過去の自分』や『現在の自分』や『未来の自分』などは単なる映像に過ぎないのです。 ひとり一人の人間にとって、『今』という汽車の中の自分がいる『ここ』という「空間」だけが唯一の実在であって、『ここ』という「空間」にいる自分は、『今』という汽車に乗って旅をしていて(動いていて)、窓ガラスに映っている自分を発見し、窓外の『過去・現在・未来』という光景とラップさせて、『過去の自分』や『現在の自分』や『未来の自分』という動画面(アニメーション)の映画を見ている、更に、『過去の自分』や『現在の自分』や『未来の自分』という動画面(アニメーション)の映画を現実だと錯覚(勘違い)している。 窓ガラスという鏡に映っている自分とは、窓外の『過去・現在・未来』の中にいる『過去の自分』や『現在の自分』や『未来の自分』ではなく、つまり、映画の中に出演しているのではなく、『今』という汽車に乗って旅をしていて(動いていて)、汽車の中の『ここ』にいる『今の自分』の映像であることを理解していないのです。 窓のカーテンを開けるから『今の自分』が映り、挙句の果てに、『過去の自分』・『現在の自分』・『未来の自分』という幻想まで見てしまうわけです。 他の生き物は窓のカーテンを開けないから、『今の自分』も知らないし、『過去の自分』・『現在の自分』・『未来の自分』という幻想も見ないで済み、『今、ここ』を生き切ることができるのです。 『今』という汽車の窓のカーテンを開けるか、開けないか。 窓のカーテンを開けることこそ、「新しい猿」、つまり、人類の文明の夜明けだったのです。 「2001年宇宙の旅」という映画の冒頭で、“人類の夜明け(The dawn of the man)”と称して、猿から人類に進化する模様が描かれています。 池の水飲み場に二つの猿のグループがやってきます。 二つのグループが水を飲む権利を争っているのですが、一方のグループのボス猿が偶然にも、辺りに落ちていた死体の骨を手にして敵方のボス猿を殴ります。 それまで素手で戦っていたのに、骨という新しい武器を偶然に手にした方の猿が圧倒的強さで勝利します。 余りの強力な武器に気づいたその猿は、感激の余り、骨を空に放り投げる。 そこで、“人類の夜明け(The dawn of the man)”というタイトルが映し出されて、本題の映画に入っていきます。 骨を手にして勝利した猿が「新しい猿」、つまり、人類です。 では何故、敵方のボス猿は相変わらず素手で戦おうとしたのに、「新しい猿」は骨を手にしたのでしょうか。 死を知ったからです。 敵方のボス猿は「死の概念」を持っていなかった、つまり、自分が死ぬことを知らなかったのに、「新しい猿」はその瞬間(とき)、「死の概念」をはじめて持った、つまり、自分が死ぬことを知ったからです。 窓のカーテンを開けたのです。 窓のカーテンを開けたため、窓ガラスに映る自分をはじめて見たのです。 それが、自分が死ぬことを知った、つまり、「死の概念」を持ったはじめであったのです。 錯覚(勘違い)の生き物・人類、知性ある生き物・人類の夜明けとは、自分が死ぬことを知ったことにあるのです。 『今の自分』と『過去の自分』・『現在の自分』・『未来の自分』がラップして見える窓のカーテンを開けた。 錯覚(勘違い)の元凶がここにあります。 |