第百十三話 人生劇場

拙著「夢の中の眠り」で、人生は3階建ての劇場の席から舞台を鑑賞しているようなものであると比喩しました。
劇場の舞台の奥の壁には白いスクリーンがあり、前の舞台の背景画面になっていて、舞台に彩りを与えています。
わたしたちひとり一人は、毎朝目が覚めてから毎晩眠りに就くまでの間、つまり、目が覚めている間は3階の鑑賞席に座って舞台を見ており、毎晩眠りに就いてから翌朝目が覚めるまでの間、つまり、眠っている間は5階の鑑賞席に座って舞台を見ているわけですが、3階と5階の席からは白いスクリーンに映っている背景画面という映像しか見えません。
3階の席から見える背景画面が、いわゆる、目が覚めている時の現実です。
5階の席から見える背景画面が、いわゆる、眠っている時の夢です。
いずれにしても、両方とも映像に過ぎない。
背景画面の前にある舞台(実舞台と称する)は、4階の席からしか見えないのですが、わたしたちは4階の席に座ることはなく、毎日3階と5階を往復し、4階を素通りしているのです。
4階の席からは背景画面と実舞台の両方が見え、4階の席に座っている自分が本当の自分であり、「わたし」と称しているのに対し、3階と5階の席に座って背景画面という映像だけを見ている自分が自我意識(エゴ)というニセモノの自分であり、「私」と称しています。
背景画面しか見えない世界、つまり、3階の席と5階の席を往復する世界が、映像の世界(宇宙)であり、背景画面と実舞台両方が見える世界、つまり、4階の席に座っている世界が、実在の世界(宇宙)に外ならないのです。
背景画面しか見えない世界、つまり、3階の席と5階の席を往復する世界が、“運動の光と音と匂いと味と肌触りの宇宙”であります。
背景画面と実舞台両方が見える世界、つまり、4階の席に座っている世界が、“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無境界の宇宙”であります。
ところが、わたしたち人間は3階と5階を毎日往復するだけで、4階の席があることを忘れて生きているのです。
だから、錯覚(勘違い)の人生に嵌り込んでいるのです。
その背景画面こそが、『今』という汽車の中から窓のカーテンを開けて見ている窓外の光景である『過去・現在・未来』という、恰も動いているように錯覚する「(実)時間」であり、実舞台こそが窓ガラスに映っている『今の自分』に外ならないのです。
本当の自分である「わたし」は4階の席に座っている自分であり、日頃、わたしたちが自分だと思い込んでいる自我意識(エゴ)、つまり、「心」、「精神」、「魂」、「霊」といったニセモノの自分である「私」は3階と5階に座っている自分なのであり、いずれにしても、鑑賞席に座って人生の劇(ドラマ)が繰り広がられている舞台を客観的に見ているホンモノの「わたし」とニセモノの「私」がいるのです。
3階と5階だけの往復ではなく、4階の席に座って人生を劇(ドラマ)として客観的に見る。
それが、わたしたち人間の真の人生であります。
背景画面しか見えない世界、つまり、3階の席と5階の席を往復する世界が、相対性理論の世界であります。
背景画面と実舞台両方が見える世界、つまり、4階の席に座っている世界が、絶対性理論の世界であります。