第百二十五話 常識のどんでん返し

二十一世紀はどんでん返しの時代です。
旧来のものは悉く否定される。
常識がまったく通用しなくなります。
古代という時代に常識だったものが、中世という時代では悉く否定され、中世という時代に常識だったものが、近代という時代では悉く否定されて二十世紀までやって来たわけです。
現代という時代は近代の延長線上に過ぎません。
現代(Modern Times)=近代(Modern Times)
現代科学の発明の殆どの基礎が十九世紀に既に為されていたものであって、所詮はその応用技術であることが、現代(Modern Times)=近代(Modern Times)の証明です。
従って、歴史をパラダイム(時代時代の支配的考え方)で括れば、人類の文明社会は古代・中世・近代であって、現代は近代の一部に過ぎません。
古代から中世のパラダイム(時代時代の支配的考え方)移行の最大の事件は、キリスト教の勃興、つまり、宗教の誕生にあります。
“暗黒の中世”の暗黒とは、宗教(キリスト教)勢力による人類の呪縛に外ならなかったのです。
近代の勃興は、“暗黒の中世”からの解放の叫びに外ならず、ルネッサンス・宗教改革・産業革命が、宗教(キリスト教)勢力による人類の呪縛という暗黒からの解放を可能にしたわけですが、中世から近代のパラダイム(時代時代の支配的考え方)移行の最大の事件は、コペルニクス、そして、ガリレオの「地動説」の出現にあります。
近代幕開けの三種の神器であるルネッサンス・宗教改革・産業革命は、「地動説」の出現無しでは起こり得なかったのです。
宗教改革が凸版印刷の技術無しでは起こり得なかったのと同じです。
突き詰めてみれば、近代科学は「地動説」の出現無しでは起こり得なかったのです。
中世という時代では、地球が静止していて天(宇宙)が運動している「天動説」が常識であり、「天動説」を主張するのが宗教(キリスト教)勢力、つまり、ローマ・バチカンであったわけで、コペルニクスやガリレオは宗教(キリスト教)勢力、つまり、ローマ・バチカンに真っ向から対決したのです。
現代社会に生きるわたしたち人間は、知識上では、「地動説」を疑う者は誰一人いません。
つまり、「地動説」が常識なのです。
中世では、「天動説」が常識でした。
近代では、「地動説」が常識でした。
中世と近代の間で常識のどんでん返しが起こったのです。
ところが、現代社会に生きるわたしたち人間が、頭(知識)では信じ込んでいる「地動説」を、体(経験)でも信じ込んでいるか、それははなはだ疑問です。
自転している地球は、一日24時間で地球を一周、つまり、4万キロメートル回っているわけですから、時速1666キロメートルという猛烈なスピードで回転しているのに、その表面で生活しているわたしたち人間はそんな実感がまるで無いのです。
わたくしが例え話でよくする、『今』という汽車に乗って人生の旅をしている自分が、窓外の『過去・現在・未来』という光景が走っていて、自分が止まっていると勘違いしているケースとまったく同じであるわけです。
窓外の『過去・現在・未来』という光景(静止空間)を時間(運動時間)と勘違いしている原因は、動いている自分が止まっていると思い込んでいる錯覚にあるのです。
『地球号』という汽車に乗っている自分が止まっていて、窓外に見える天という宇宙が動いているという錯覚とまったく同じなのです。
つまり、現代社会に生きるわたしたち人間は、頭(知識)では信じ込んでいる「地動説」を、体(経験)では信じていないのです。
本音と建前のこのギャップが人生の悩み・四苦八苦の原因なのです。
二十一世紀に起こるどんでん返し、つまり、パラダイム(時代時代の支配的考え方)移行の最大事件は、『過去・現在・未来』という「時間」の常識がどんでん返しになる出来事になるでしょう。