第百三十一話 『今』という名の「時間」の汽車

『過去・現在・未来』という、「時間」と思っていたものが「空間(光景)」だった。
『今、ここ』、つまり、『今の自分』という、「空間」と思っていたものが「時空間」だった。
言い換えれば、
「時間(運動)」と思っていたものが「空間(静止)」だった。
「空間(静止)」と思っていたものが「時空間(静止・運動)」だった。
言い換えれば、
映像(運動)と思っていたものが現実(静止)だった。
現実(静止)と思っていたものが現実・映像(静止・運動)だった。
このことに気づくためにはどうしたらよいのでしょうか。
『今』という名の「時間」の汽車に乗って、『ここ』という名の「空間」にいる自分が、窓外の『過去・現在・未来』という、本来、静止している「光景(空間)」を、運動している「時間」と思い違いをしていることに気づくためには、『今』という名の「時間」の汽車から自分が降りることです。
つまり、『今(時間)、ここ(空間)』から『ここ(空間)』に降りることです。
そうすれば、自分の居るところが、『今(時間)、ここ(空間)』から『過去・現在・未来(空間)、ここ(空間)』に変わります。
つまり、『運動・静止(相対時空間)』から『静止一如(絶対空間)』に変わります。
つまり、『生・死二元』から『死一如』に変わります。
つまり、『相対生・死』から『絶対死』に変わります。
つまり、『相対』から『絶対』に変わります。
気づくということは、『相対』から『絶対』に変わることに外なりません。
最終的には、『過去・現在・未来』の終着駅である『死』という駅に降りることに外なりません。
“自分もいつか必ず死ぬ”という「死の概念」を持った、つまり、窓外の「過去・現在・未来』という光景を見たわたしたち人間にとって、『過去・現在・未来』の終着駅である『死』という名の駅で降りることで、全員が思い違いに気づくことになります。
しかし、思い違いに気づいたら、『今の自分』は最早いない。
気づいたら、気づいた者は最早いない。
死の正体がここに垣間見えます。
逆に言えば、生、つまり、生きるということは、『今』という名の「時間」の汽車に乗ることに外ならないが、果たして本当に汽車に乗っているのでしょうか。
仮に、自分が汽車の外から汽車の中を見れば、汽車に乗っている自分と汽車は一緒に動いていることに気づきます。
汽車の中にいる自分を、汽車の外から見る自分がいる。
“動いているものはすべて映像であって、実在するものはすべて静止している”
“運動の光と音と匂いと味と肌触りの宇宙”が映像で、“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無境界の宇宙”が実在である”
“動画面(アニメーション)は映像であって、静止画フィルムが実在である”
“3階・4階・5階のある劇場の席で鑑賞している自分(わたし)が実在で、実舞台で芝居をしている自分(私)は映像である”
従って、
“汽車の外にいる自分が実在で、汽車の中にいる自分は映像である”
つまり、『今』という名の「時間」の汽車の外にいる自分が本当(実在)の自分であり、『今』という名の「時間」の汽車の中にいる自分はニセモノ(映像)の自分なのです。
それが本物の「地動説」、つまり、「自動説」に外なりません。