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第百三十二話 客観と主観 映像には必ず実在がある。 動画面(アニメーション)には必ず静止画フィルムがある。 運動しているものには必ず静止しているものがある。 “運動の光と音と匂いと味と肌触りの宇宙”には必ず“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無境界の宇宙”がある。 実舞台で芝居をしている映像の自分(私)には必ず3階・4階・5階のある劇場の席で鑑賞している実在の自分(わたし)がいる。 従って、 『今』という名の「時間」の汽車の中にいるニセモノ(映像)の自分には必ず、『今』という名の「時間」の汽車の外にいる本当(実在)の自分がいる。 結局の処、 ニセモノ(映像)の主観には必ず本物(実在)の客観がある。 わたしたち人間は、主観と客観についてもどうやら反対に思い込んでいたらしい。 主観が絶対で、客観が相対だと思い込んでいたらしい。 客観が絶対で、主観が相対であったのです。 よくよく考えてみれば至極当たり前のことなのですが、自分の姿、つまり、主観は他人を通してしか観ることができない、つまり、映像を通してしか観ることができないが、他人の姿、つまり、客観は在りのままを観ることができる、つまり、実在を観ることができるのです。 つまり、客観が絶対(実在)で、主観が相対(映像)なのです。 わたしたち人間は一体どこまで錯覚(勘違い)したら気づくのでしょうか。 しかも、この錯覚(勘違い)は必ずやってくる死の際に気づかされる羽目になる。 逃げ通すことができるなら、錯覚(勘違い)の人生を送ることも一興ですが、絶対に逃げ通すことができないことを、逃げ通そうとする。 自覚症状の無い音痴も甚だしいのが、わたしたち人間です。 だから、周りに騒音(公害)を撒き散らしているのです。 だから、地球温暖化といった地球環境問題を撒き散らしているのです。 |