第百三十三話 「天動説」=絶対主観説、「地動説」=絶対客観説

客観=絶対
主観=相対
これも二十世紀までの常識のどんでん返しです。
二十世紀までの常識では、
主観=絶対
客観=相対
でした。
常識のどんでん返しの根拠は、第百三十二話でお話しましたように、自分の姿、つまり、主観は他人を通してしか観ることができない、つまり、映像を通してしか観ることができないが、他人の姿、つまり、客観は在りのままを観ることができる、つまり、実在を観ることができる、つまり、客観が絶対(実在)で、主観が相対(映像)であるからです。
新田哲学では三の法則があると以前お話しました。
(1) 「二元論」
(2) 「全体と部分の相対性の法則」
(3) 「在り方と考え方」
これら三つの法則を一言で言えば、「全体感と部分観」の関係に外ならない。
わたしたち人間だけが、「部分観」で生きているから、「死の概念」を持ち、死を怖れ、悩みや四苦八苦を持ち、支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会を生み、差別・不条理・戦争を繰り返し、挙句の果てに、地球温暖化といった地球環境問題を惹き起こしている。
つまり、
「一元論」、「三元論」=「全体感」=「在り方」=「絶対」=「客観」
「二元論」=「部分観」=「考え方」=「相対」=「主観」
この常識のどんでん返しは、「天動説」から「地動説」へのどんでん返しと同じぐらい衝撃的であります。
新田哲学が主張してきた常識のどんでん返し。
つまり、
映像には必ず実在がある。
動画面(アニメーション)には必ず静止画フィルムがある。
運動しているものには必ず静止しているものがある。
“運動の光と音と匂いと味と肌触りの宇宙”には必ず“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無境界の宇宙”がある。
実舞台で芝居をしている映像の自分(私)には必ず3階・4階・5階のある劇場の席で鑑賞している実在の自分(わたし)がいる。
従って、
『今』という名の「時間」の汽車の中にいるニセモノ(映像)の自分には必ず、『今』という名の「時間」の汽車の外にいる本当(実在)の自分がいる。
つまり、
『今』という名の「時間」の汽車の中にいるニセモノ(映像)の自分が、『過去・現在・未来』という静止している光景(空間)を運動している(流れている)「時間」と錯覚(勘違い)してきたのであって、『今』という名の「時間」の汽車の外にいる本当(実在)の自分は、『今』という名の「時間」の汽車の中にいるニセモノ(映像)の自分が一緒に動いているに過ぎないことを自己客観視している、つまり、自覚しているのです。
自覚症状の無い音痴だけが、そのことに気づいていないのです。
二十世紀までの常識では、『今』という名の「時間」の汽車の中にいるニセモノ(映像)の自分を本当の自分だと思い込んできた。
二十一世紀からの常識では、『今』という名の「時間」の汽車の外にいるのが本当の自分なのです。
「天動説」=絶対主観説であり、「地動説」=絶対客観説に他ならない。
中世の宗教勢力、つまり、ローマ・バチカンが「天動説」を主張したのは、神=天を絶対主観視したからに他なりません。
コペルニクスの「地動説」によって、宗教は既に崩壊していたのです。
爾来、500年、未だに我々人間は錯覚から覚めていないのです。
当時が「暗黒の中世」なら、今はさしずめ「錯覚の近代(現代)」と言えるでしょう。