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第百三十四話 「無」の宇宙 & 「有」の宇宙 『今』という名の「時間」の汽車の中にいるニセモノ(映像)の自分には必ず、『今』という名の「時間」の汽車の外にいる本当(実在)の自分がいる。 つまり、 『今』という名の「時間」の汽車の中にいるニセモノ(映像)の自分が、『過去・現在・未来』という静止している光景(空間)を運動している(流れている)「時間」と錯覚(勘違い)してきたのであって、『今』という名の「時間」の汽車の外にいる本当(実在)の自分は、『今』という名の「時間」の汽車の中にいるニセモノ(映像)の自分が一緒に動いているに過ぎないことを自己客観視している、つまり、自覚している。 自覚症状の無い音痴、つまり、“ええじゃないか、ええじゃないか、自分さえよければええじゃないか!”と阿呆踊りしている「旧い人間」だけが、そのことに気づいていない。 わたしたち人間は、『今』という名の「時間」の汽車の中にいるニセモノ(映像)の自分を本当の自分だと思い込んできたが、実は、『今』という名の「時間」の汽車の外にいるのが本当の自分だったのです。 では、汽車の外から汽車の中のニセモノ(映像)の自分を自己客観視している本当の自分とは一体何処にいるのか。 汽車の中のニセモノ(映像)の自分は、『今』という名の「時間」の汽車と一緒に動いている。 汽車の外の本当の自分は、『今』という名の「時間」の汽車から離れて(独立して)止まっている。 そもそも、『今』という名の「時間」の汽車とは一体何者であり、その汽車に乗ったり、降りたりするとはどういう意味なのでしょうか。 『今』という名の「時間」の汽車に乗っている自分はニセモノ(映像)であり、『今』という名の「時間」の汽車から降りた自分が本当の自分であるとは一体どういう意味なのでしょうか。 汽車に乗るのは旅をするからです。 『今』という名の「時間」の汽車に乗り込むのは人生の旅を始めるからです。 つまり、「誕生」という名の始発駅からこの汽車に乗るのです。 『今』という名の「時間」の汽車に乗って一緒に走るのは人生の旅をするからです。 つまり、「生」という名の車中が人生の旅先です。 『今』という名の「時間」の汽車から降りるのは人生の旅を終えるからです。 つまり、「死」という名の終着駅でこの汽車から降りるのです。 ところが、本当の自分は、最初からこの汽車に乗ってなどいないで、ただ乗っている想像をしているだけです。 だから、『今』という名の「時間」の汽車の外にいて、『今』という名の「時間」の汽車の中にいるニセモノ(映像)の自分、つまり、乗っているつもりの自分を自己客観視しているのです。 「誕生」・「生」・「死」とは、137億光年のマクロ宇宙から、人間社会といったミディアム宇宙、そして素粒子といったミクロ宇宙までを貫く円回帰運動に外ならず、これらの運動宇宙は実在するのではなく、飽くまで映像宇宙であります。 実在するのは、「誕生」・「生」・「死」という円回帰運動を終えた(超えた)静止宇宙であります。 映像である運動宇宙とは、“運動の光と音と匂いと味と肌触りの宇宙”。 つまり、「有(映像)」の宇宙です。 実在である静止宇宙とは、“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無境界の宇宙”。 つまり、「無(実在)」の宇宙です。 「有(映像)」の宇宙とは無い宇宙のことです。 「無(実在)」の宇宙とは有る宇宙のことです。 本当の自分は、“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無境界”の「無(実在)」の宇宙にいるのです。 ニセモノの自分が、“運動の光と音と匂いと味と肌触り”の「有(映像)」の宇宙にいるのです。 「誕生」して「生きて」そして「死ぬ」という人生は、まさに夢(映像)の世界に外なりません。 朝目が覚めることで、夢の世界から覚めるように、人生を終える、つまり、死ぬことで、夢の世界から覚めるのですが、覚めた後の世界は“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無境界”の「無」の世界ですから、誰もその姿を「有」の世界に伝えることはできません。 輪廻転生の考え方など稚拙の極みであります。 |