第百三十七話 鑑賞する者と鑑賞されるもの

本当の自分とは、鑑賞する者であって、鑑賞されるものはすべて映像である。
自分以外の者、つまり、他者はすべて映像である所以です。
見えるものはすべて映像なのです。
聞こえるものはすべて映像なのです。
匂えるものはすべて映像なのです。
味わえるものはすべて映像なのです。
触れるものはすべて映像なのです。
見えるもの、聞こえるもの、匂えるもの、味わえるもの、触れるものすべてが鑑賞されるもの、つまり、映像なのです。
そして、その鑑賞されるものの中に、ニセモノの映像の自分が一緒にいて、「自分」だと思い込んでいる。
直接鑑賞される(見える、聞こえる、匂える、味わえる、触れる)自分の姿がニセモノの映像の自分です。
一方、
見る者が実在なのです。
聞く者が実在なのです。
匂う者が実在なのです。
味わう者が実在なのです。
触る者が実在なのです。
見る者、聞く者、匂う者、味わう者、触る者が鑑賞する者、つまり、本当の自分である実在なのです。
ところが、鑑賞者を鑑賞することはできない。
鑑賞することができるのは鑑賞されるものだけです。
見えるものは無く、見る者だけが有るが、見る者は自分が見えない。
聞こえるものは無く、聞く者だけが有るが、聞く者は自分が聞こえない。
匂えるものは無く、匂う者だけが有るが、匂う者は自分を匂えない。
味わえるものは無く、味わう者だけが有るが、味わう者は自分を味わえない。
触れるものは無く、触る者だけが有るが、触る者は自分を触れない。
「有」の宇宙とは無い宇宙のことであり、「無」の宇宙とは有る宇宙のことである所以がここにあります。