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第百三十九話 『今』=『永遠』 有るものは無い。 『今の自分』という「時空間」がまさに有るもので無い代表です。 無いものは有る。 『過去・現在・未来』という「時間」がまさに無いもので有る代表です。 この訳のわからない話が実は真理なのです。 更に、訳のわからない話をすると、 『今』が『過去・現在・未来』という「時間」であり、 『過去・現在・未来』という「空間」が『自分』であります。 従って、 『今』=『過去・現在・未来』=「時間」 『自分』=『過去・現在・未来』=「空間」 従って、 『今の自分』=『過去・現在・未来』=「時空間」 結局の処、 『今』という名の「時間」の汽車の中にいる『今の自分』という「時空間」が、映像宇宙であり、運動宇宙である“運動の光と音と匂いと味と肌触りの宇宙”であります。 つまり、 鑑賞されるものが、映像宇宙であり、運動宇宙である“運動の光と音と匂いと味と肌触りの宇宙”であります。 『今』という名の「時間」の汽車の中にいる『今の自分』という「時空間」を見ている、汽車の外にある『過去・現在・未来』という「空間」、つまり、『自分』が、実在宇宙であり、静止宇宙である“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無境界の宇宙”であります。 つまり、 鑑賞する者が、実在宇宙であり、静止宇宙である“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無境界の宇宙”であります。 自分を乗せているものが運動していると、自分も運動しているのに、自分が静止して、他者が運動しているように見える。 自分を乗せているものが静止していると、自分も静止しているのに、自分が運動して、他者が静止しているように見える。 窓外の光景(空間)である『過去・現在・未来』を、流れる「時間」と錯覚(勘違い)していたのは、『今』という名の「時間」の汽車が走っているからで、走るのを止めたら、窓外の光景(空間)である『過去・現在・未来』も止まります。 それが、汽車の外と汽車の中との違いです。 それが、鑑賞する者と鑑賞されるものの違いです。 わたしたち人間は、「誕生」、「生」、「死」という円回帰運動の一生の中の「生」という円周だけを生きているために、人生の旅をする汽車の中にいる『今の自分』を唯一の自分と錯覚(勘違い)してきたのですが、実は、汽車の外に本当の唯一の『永遠の自分』がいるのを忘れてしまっているのです。 『今』が『過去・現在・未来』になると水平時間(実時間)になる。 『今』が『永遠』になると垂直時間(虚時間)になる。 実は、(実)が(虚)であり、(虚)が(実)だったのです。 有るものは無い。 無いものは有る。 |