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第百四十一話 真の自由=死からの解放 『今、ここ』=『現在の死』 拙著、「こころの琴線(死への誘い)」(終わりにあたって)を下記引用します。 終わりにあたって 人間にとって死とは人生の結論であります。 つまり、終わりがあるわけです。 原因と結果の法則、つまり、因果律に基づけば、始まりがあるから終わりがある。 まさに、誕生があるから死がある。 至極当然のように思われますが、果たしてそうでしょうか。 では、わたしたち人間は、未だ来ぬ未知の出来事である死に何故振りまわされて生きているのでしょうか。 因果律に基づけば、原因、つまり、誕生した時から、結果、つまり、死が決定しているわけですから、死は未知のことではなくて既知のことでなければ理屈に合いません。 すべては必然であるとする因果律に基づく考え方です。 “だから、我々はいつか必ず死ぬことを知っているのだ!”と反論される方が殆どの現代人であります。 しかし、“我々はいつか必ず死ぬ”というのは理屈に合いません。 “いつか”は未知のことで、“必ず”とは既知のことだからです。 “我々は必ず死ぬ”既知のことなら、死ぬ時期も決まっている筈です。 始まりがあるから、終わりがあるという因果律に基づいています。 “我々はいつか死ぬ”未知のことなら、死は確定事(約束事)ではない筈です。 始まりがないから、終わりがないという因果律に基づいています。 しかし、最初と最後に永遠性がある円回帰運動をしているわたしたちの“運動の光と音の宇宙”では、 始まりがあるから、終わりがない。 若しくは、 始まりがないから、終わりがある。 どちらに軍配が上がるのか、その鍵を見つけることが、知性を得た生き物・人間の課題であり続けてきた理由であり、その結論を出す時期が二十一世紀ではないでしょうか。 平成19年2月4日 新 田 論 「誕生」、「生」、「死」という円回帰運動は、「誕生(始まり)」があれば「死(終わり)」がなく、「死(終わり)」があれば「誕生(始まり)」はないことを示していて、“始まりがあるから終わりがある”、若しくは、“始まりがないから終わりがない”という因果律は、わたしたちの生きている世界では通用しないと言っているわけです。 わたしたちは、「誕生」は自分の意思で出来ません。 つまり、「誕生(始まり)」はないわけですから、「死(終わり)」があるわけです。 わたしたち人間だけが、“我々はいつか必ず死ぬ”という「死の概念」を持った理由がここにあります。 言い換えれば、 「誕生」、「生」、「死」という円回帰運動は、『生』とは、『過去の生』か『未来の生』という映像の運動時空間であり、『誕生』・『死』という実在する静止時空間は、『現在の誕生』か『現在の死』だけであり、『誕生(始まり)』がないものは、『現在の死』のみであり、それが『今、ここ』であります。 『今、ここ』=『現在の死』ということになります。 つまり、 唯一実在することは、『死』だけであるということです。 その『死』の問題を解決しない限り、映像の運動時空間である『生』、つまり、『過去の生』や『未来の生』など、まさに、絵に描いた餅に過ぎないのです。 二十一世紀にやって来る新しい時代、つまり、「新代」のパラダイム(時代時代の支配的考え方)は、『死』の問題の解決であります。 拙著、「こころの琴線(死への誘い)」では、『死』の問題からの解放こそ、真の自由であり、それを「高度自由」と称しています。 「新代」とは「高度自由社会」の時代と言えるでしょう。 「新しい日本」が目差すべきものは、『死』の問題から解放された「高度自由社会」であります。 |