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第百四十七話 「想い(点)」と「連想(円)」 『今』という一点の「静止時間」が、始点(『誕生』)から終点(『死』)まで円回帰運動をすると、円周(『生』=上る『永遠』という半円と下る『永遠』という半円)という映像が映る。 『ここ』という一点の「静止空間」が、始点(『誕生』)から終点(『死』)まで円回帰運動をすると、円周(『生』=退く『過去』という半円と進む『未来』という半円)という映像が映る。 ヒモの先に火を点けてヒモを回すと、火の点いたヒモの先の点が円回転をして、火の円が見えます。 高速度カメラでこの様子を写すと、火の円など見えず、火の点いたヒモの先の点が断続的に写っているのがわかります。 これは目の錯覚を惹き起こしているわけで、動画面(アニメーション)は単なる幻想(映像)であって、一枚一枚の静止画フィルムの点が断続的に実在していることがわかります。 動いているものはすべて幻想(映像)であって、止まっているものが実在であることがわかります。 わたしたち人間の『心』や『意識』や『魂』や『霊』や『精神』といった、いわゆる『思考』という代物についても同じことが言えます。 一つ一つの「想い」という点だけが実在するだけで、『思考』という代物は一つ一つの「想い」という点が恰も連なって「連想」という円が映っているに過ぎないのです。 一つ一つの「想い」が実在で、『心』や『意識』や『魂』や『霊』や『精神』といった、いわゆる『思考』は幻想(映像)なのです。 一つ一つの「想い」が静止画フィルムで、『心』や『意識』や『魂』や『霊』や『精神』といった、いわゆる『思考』が動画面(アニメーション)なのです。 静止画フィルムはカメラで写されるように、一つ一つの「想い」は「五感」というカメラで写される。 新田哲学では、『心』や『意識』や『魂』や『霊』や『精神』といったものはそもそも無くて、在るのは「想い」だけで、「想い」は肉体の一部(外皮)である五感によって生じると主張している根拠がここにあります。 つまり、肉体あっての魂なのです。 “肉体は滅びても魂は永遠である”といった輪廻転生説がニセモノである証明です。 動画面(アニメーション)が実在していて、静止画フィルムが実在しない、と輪廻転生説は言っているのです。 スクリーンに映っている動画面(アニメーション)を掴み取れると言うのでしょうか。 映写室にある映写フィルム(静止画フィルム)は掴み取れます。 わたしたち人間だけが、『心』や『意識』や『魂』や『霊』や『精神』といった、いわゆる『思考』を持っていると錯覚(勘違い)をし、他の生きものたちは、「想い」だけを持っていることを自覚しているのです。 だから、わたしたち人間だけが悩みや四苦八苦の人生を送り、挙句の果てに、「死の概念」を持ち、未だ来ぬ未来の出来事である『死』に怯えて生きているのです。 『過去・現在・未来』を「時間」と錯覚(勘違い)してきたからです。 他の生きものたちは、悩みも四苦八苦もない、「死の概念」も持たず、従って、『死』という未だ来ぬ未来を連想することもなく生きています。 彼らには、『過去・現在・未来』を「時間」とする概念など持ち合わせておらず、ただ『今、ここ』を生き切っているだけです。 『今』という一点の「静止時間」が、始点(『誕生』)から終点(『死』)まで円回帰運動をすると、円周(『生』=上る『永遠』という半円と下る『永遠』という半円)という映像が映る。 『ここ』という一点の「静止空間」が、始点(『誕生』)から終点(『死』)まで円回帰運動をすると、円周(『生』=退く『過去』という半円と進む『未来』という半円)という映像が映る。 |