第百四十八話 地球号・『今』

『今』という一点の「静止時間」が、始点(『誕生』)から終点(『死』)まで円回帰運動をすると、円周(『生』=上る『永遠』という半円と下る『永遠』という半円)という映像が映る。
『ここ』という一点の「静止空間」が、始点(『誕生』)から終点(『死』)まで円回帰運動をすると、円周(『生』=退く『過去』という半円と進む『未来』という半円)という映像が映る。
『今、ここ』という一点の「静止空間」が、始点(『誕生』)から終点(『死』)まで円回帰運動をすると、円周(『生』)という「運動空間」の映像が映る。
これが、他の生きものの、『今』という名の「時間」の汽車に乗って旅をする一生です。
彼らは汽車の窓のカーテンを開けないから、『過去・現在・未来』という窓外の光景を見ないため、窓ガラスに映っている自分という映像を見ることもなく、『過去・現在・未来』という「光景(空間)」を「時間」と錯覚することもなく、自分のいる場所が『ここ』という「空間」であるだけで、「自分が・・・」という自我意識(エゴ)もなく、自我意識(エゴ)によって生じる「時間の概念」もない。
彼らも『今』という名の「時間」の汽車に乗って一緒に動いているのですが、窓のカーテンを開けていないため、『今』という名の「時間」の汽車も自分も共に静止していると思い込んでいる。
従って、
『今、ここ』は「静止空間」なのです。
一方、
『今ここ』=『今の自分』という一点の「静止時空間」が、始点(『誕生』)から終点(『死』)まで円回帰運動をすると、円周(『生』)という「運動時空間」の映像が映る。
これが、わたしたち人間の、『今』という名の「時間」の汽車に乗って旅をする人生です。
わたしたち人間は、汽車の窓のカーテンを開けるから、『過去・現在・未来』という窓外の光景を見るため、窓ガラスに映っている自分という映像を見て自分のいる場所である『ここ=自分』と錯覚して、『過去・現在・未来』という「光景(空間)」を「時間」と錯覚して、「自分が・・・」という自我意識(エゴ)が生じ、自我意識(エゴ)によって生じる「時間の概念」を持つ。
『今』という名の「時間」の汽車に乗って一緒に動いているのですが、窓のカーテンを開けているため、窓外の『過去・現在・未来』という光景(空間)が動いていて、『今』という名の「時間」の汽車も自分も共に静止していると思い込んでいる。
従って、
『今ここ』=『今の自分』は「静止時空間」なのです。
わたしたち人間も、他の生きものも、共に、『今』という名の「時間」の汽車に乗って一生という旅をしている点においては同じです。
『今』という名の「時間」の汽車こそ、母なる大地・地球号なのです。