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第百四十九話 どぶねずみ=人間 わたしたち人間も、他の生きものも、共に、『今』という名の「時間」の汽車、つまり、地球号に乗って一生という旅をしている点においては同じです。 地球号という汽車の窓のカーテンを開けているか、開けていないかの違いだけです。 わたしたち人間だけが、地球号という汽車の窓のカーテンを開けたわけです。 地球の外の世界を知ったわけです。 地球号という汽車の窓を開けていない他の生きものは、地球の外の世界を知らないわけです。 この違いは一体何なのか。 全体感と部分観の違いです。 地球号という汽車の窓を開けていない他の生きものは、地球号という汽車と乗っている自分とを一体だと感じている。 つまり、 他の生きものは地球と自分を全体感で捉えているのです。 地球号という汽車の窓のカーテンを開けたわたしたち人間は、地球号という汽車と乗っている自分とを別だと考えている。 つまり、 わたしたち人間は自分を地球の部分観で捉えているのです。 新田哲学では三の法則があるとお話しました。 (1) 「二元論」 (2) 「全体と部分の相対性の法則」 (3) 「在り方と考え方」 これら三つの法則を一言で言えば、「全体感と部分観」の関係に外ならない。 わたしたち人間と他の生きものの違いは、まさに知性を得たか、得ていないかの違いなのです。 窓のカーテンこそ、「考える葦」である知性に外なりません。 わたしたち人間も、他の生きものも、共に、『今』という名の「時間」の汽車、つまり、地球号に乗って一生という旅をしている点においては同じです。 つまり、 わたしたち人間は万物の霊長などでは決してない。 他の生きものと同じ生きものの一つに過ぎない、ただ、一番先頭を切っているだけです。 一番先頭を切っている者には大きな責任があります。 地球温暖化といった地球環境問題が噴出している現象をどのように捉えたらいいか、それが未来への道を決定するのです。 拙著「心の旅の案内書」(罪と罰)を以下紹介しておきます。 どぶネズミの暴走 いちばん うしろから ついていく どぶネズミが 前のに 訊ねた 一体どこに向かって走っているのだろう 前のどぶネズミは 前が 走っているから ただ ついて行くだけ と言った だけど、気になるので その前の どぶネズミに 訊ねた 一体どこに向かって走っているのだろう その前のどぶネズミも おなじ 返事をしたが 気になった そして 前のどぶネズミに 訊ねた 一体どこに向かって走っているのだろう とうとう 一番前のどぶネズミのところまできた 一体どこに向かって走っているのだろう 先頭を走るどぶネズミは だれにも 訊ねることができない うしろからついてくるから ただ 走っているだけ と答えた その答えが 一番うしろのどぶネズミに 伝わった そりゃあー ないだろう と言った 途端 前の どぶネズミたちは 断崖から まっさかさま ただ 一匹 そのどぶネズミは 呆然と立ちつくして ああ 一番うしろでよかった 罪と罰 発散と抑圧 で言ったように、実存(存在そのものといった方がよい)の世界では罪も罰もない。信仰の世界では罪はあっても、罰はない。懺悔すれば許される。この世の世界では罰だけ。法律に反すると罰せられる。会社のルールに反すれば罰せられる。罰せられることをすることがこの世では罪。だから、罰がなければ、罪もない。罰則だけで、人間の社会は成り立っている。これは人間の社会だけ。動物の世界には掟がある。掟は法律ではない。自然の摂理が掟。掟を破ったら、自然の法則に合わないことをしたからその反作用を受ける。だがこれは罰ではない。猿の世界でも、ライオンの世界でも掟はある。 だがその掟は猿の、ライオンのボスがつくったものではない。その証拠にボスが変わったからといって、掟が変わるわけではない。 だが人間の世界は違う。罰をつくるのは、自然ではなく、同じ人間です。だから一般の多くの弱い人間、すなわち被支配的な人間は罰意識が強くなる、だがそれは、特定の一部の人間、すなわち強い人間、支配的な人間に対してだけ向けられる意識だ。同類の被支配的な人間同士には決して向けられない。彼等どうしのあいだでは、無意識の罪で溢れている。罰せられないから。やりたい放題の無法の世界になっている。動物の世界の方がはるかに秩序がある。 強い支配的な人間には動物と同じ掟の概念が強くある。だから秩序がある。 現在の人間世界がこれほどにも、堕落した、無秩序な状態にあるのは、弱い人間があまりにも多くなりすぎたからにほかならない。ねずみの世界と同じになってしまっている。動物にも秩序ある世界を持つものと、そうでないものとがある。支配的な動物と被支配的動物とがいる。自然の摂理は、支配的な動物は数では少なくし、被支配的な動物は多くしてバランスをとっている。しかし、その前提条件は支配的な動物が被支配的な動物を殺す(食う)ことによって、被支配的動物の数の階乗的増加を防いでいる。人間の場合は戦争がその役割を果たしてきた。過去五十年あまりそれがなかった結果、人間社会もどぶねずみ社会と同じになった。あきらかに被支配的動物になり下った。その原因はあまりにも無意識すぎるからです。自分の名札を自分と思って生きているからです。自分は大臣だ。自分は代議士だ。自分は教授だ。自分は医者だ。自分は社長だ。自分は大企業の社員だ。それは単なる名札だけです。あなた自身ではない。だから、意識して生きている人間か、そうでない人間かの見分け方は、意識して生きていない人間は必ず名札で相手を呼ぶ。昨日まで大企業の専務だった人が、今日社長になると、その人に対して何の恥じらいもなく、すぐに何々専務から、何々社長と言える。これは専務から社長になった人にとっては侮辱なのに同類で無意識だから、それさえ感じない鈍感さで、ただ心地よく聞こえる、…社長の響きに悦にいるだけ。 これは自分のものだ、これは自分の家だ、これは自分の女だ、これは自分の国家だ、これは自分の国の国旗だ。 もしもだれか他の国の人が、自分の国の国旗を放り投げただけで、やれ戦争だといって人殺しをし、国を滅ぼし、挙げ句のはてに原爆で大量殺戮をして、しかも、その国を戦犯として裁く。これは意識している人間にとっては信じられない光景です。 無意識に生きることは本当の意味での原罪です。 (参考)心の旅の案内書 〜 罪と罰 |