|
第百五十九話 地球の崩壊は間近 地球を本当の親とする自然社会ではなく、人間(肉体上)の両親を実の親とする人間社会で生きてきた故に、わたしたち人間は地球との一体感(全体感)を失い、孤絶観(部分観)に陥った。 エデンの園を追放されたアダムとイブとは、まさにこのことを象徴しているのですが、神がわたしたち人間を追放したのではなく、わたしたち人間が自らエデンの園を出ていったのです。 善悪の判断をする禁断の実を敢えて食べたわたしたち人間は、以降、何事につけ、“善いか、悪いか”の区分け(判断)をするようになっていったわけです。 逆に言えば、自然社会(エデンの園)で生きている人間以外の生きものは、善悪の判断を一切しないで生きていることになります。 ライオンがシマウマの子供を食い殺しても、ライオンもシマウマも、善いとも悪いとも思っていないのです。 それが自然の掟です。 人間が他の人間を殺したら、罪と罰が待ちうけている。 それが人間社会の戒め(法律)です。 自然社会には善悪の判断は一切ないのに、人間社会だけに善悪の判断があるのは何故でしょうか。 エデンの園、つまり、自然社会では善悪の判断をする木の実は禁断の実であったのは何故でしょうか。 平たく言えば、自然社会では自分勝手な判断は一切許されておらず、すべては母なる自然(地球)を全面信頼せよと言っているわけです。 つまり、全体感で生きよと言っているわけです。 何故なら、自分勝手な判断をすると全体のバランスが崩れ、結果、全体を構成している各部分も崩れていくことになるからです。 一種類の生きものでも、自分勝手な判断をすると、全体にまで問題が及び、全体が崩壊していけば、自分も崩壊するのは当然の理です。 況してや、生きものの中で最強のものが、自分勝手な判断をすると、全体の崩壊はすぐにやってきます。 結局の処、 善悪の判断をするということは、自分勝手な判断をするということに外ならず、自分勝手な判断をするということは、必ず自分にとって都合の善い方を取り、都合の悪い方を捨てる、つまり、好いとこ取りをすることになるのです。 新田哲学では、「好いとこ取りの相対一元論」と呼んでいます。 善悪が好い悪い、つまり、好き嫌いになってしまうのです。 好きなものなら何でも善く、嫌いなものなら何でも悪い。 エデンの園、つまり、自然社会で、善悪の判断の木の実が禁断の実である理由は、自然社会自体を崩壊させてしまう危険極まりないものだからです。 自分勝手な都合は一切許されていないのが自然社会、つまり、地球なのです。 ところが、現代社会で生きている人間の大半は、“自分さえ好かったら善い”と信じて疑わない。 “自分さえ好かったら善い”という考え方を改めない限り、地球の崩壊は間違いなくやって来るでしょう。 |