第百六十一話 どぶねずみ人間の自己矛盾

“自分さえ好かったら善い”、だけど、“みんなで渡れば怖くない”
現代人間社会を暴走するどぶねずみの根性がここに表われています。
今から2000年前に生きたイエス・キリストが、自分を十字架に架けた連中のことを最後の今際に神に向かってこう言いました。
“神よ!彼らは自分たちが何をしているのかわかっていないのです!”
彼らとは、自分たちが何処に何故向かっているのかわからずに暴走しているどぶねずみの人間に外ならないのです。
“自分さえ好かったら善い”ということは、みんなと違うことを欲している。
“みんなで渡れば怖くない”ということは、みんなと違うことを避けている。
自己矛盾も甚だしいわけです。
現代社会、特に、先進社会の大半の人間が睡眠薬を常用している原因は、この自己矛盾による分裂症にあるのです。
言い換えれば、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死への恐怖の人生の原因は、自己矛盾による分裂症にあると言っても過言ではありません。
病気になることが、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死への恐怖の原因ではない。
“自分さえ好かったら善い”、つまり、健康を求めていながら、“みんなで渡れば怖くない”、つまり、病気を呼び込んでいる。
何故なら、病気が実在で健康は病気の無い状態に過ぎないからです。
つまり、健康な人の数は圧倒的に少なく、病気の人の数が圧倒的に多いからです。
この自己矛盾による分裂症が、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死への恐怖の原因なのです。
貧乏になることが、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死への恐怖の原因ではない。
“自分さえ好かったら善い”、つまり、お金持ちを求めていながら、“みんなで渡れば怖くない”、つまり、貧乏を呼び込んでいる。
何故なら、貧乏が実在でお金持ちは貧乏の無い状態に過ぎないからです。
つまり、お金持ちの数は圧倒的に少なく、貧乏の数が圧倒的に多いからです。
この自己矛盾による分裂症が、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死への恐怖の原因なのです。
弱者になることが、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死への恐怖の原因ではない。
“自分さえ好かったら善い”、つまり、強者を求めていながら、“みんなで渡れば怖くない”、つまり、弱者を呼び込んでいる。
何故なら、弱者が実在で強者は弱者の無い状態に過ぎないからです。
つまり、強者の数は圧倒的に少なく、弱者の数が圧倒的に多いからです。
この自己矛盾による分裂症が、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死への恐怖の原因なのです。
愚者になることが、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死への恐怖の原因ではない。
“自分さえ好かったら善い”、つまり、賢者を求めていながら、“みんなで渡れば怖くない”、つまり、愚者を呼び込んでいる。
何故なら、愚者が実在で賢者は愚者の無い状態に過ぎないからです。
つまり、賢者の数は圧倒的に少なく、愚者の数が圧倒的に多いからです。
この自己矛盾による分裂症が、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死への恐怖の原因なのです。
不幸になることが、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死への恐怖の原因ではない。
“自分さえ好かったら善い”、つまり、幸福を求めていながら、“みんなで渡れば怖くない”、つまり、不幸を呼び込んでいる。
何故なら、不幸が実在で幸福は不幸の無い状態に過ぎないからです。
つまり、幸福な人の数は圧倒的に少なく、不幸な人の数が圧倒的に多いからです。
この自己矛盾による分裂症が、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死への恐怖の原因なのです。
奴隷(被支配者)に落ちるのが、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死への恐怖の原因ではない。
“自分さえ好かったら善い”、つまり、王様(支配者)を求めていながら、“みんなで渡れば怖くない”、つまり、奴隷(被支配者)を呼び込んでいる。
何故なら、奴隷(被支配者)が実在で王様(支配者)は奴隷(被支配者)の無い状態に過ぎないからです。
つまり、王様(支配者)の数は圧倒的に少なく、奴隷(被支配者)の数が圧倒的に多いからです。
この自己矛盾による分裂症が、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死への恐怖の原因なのです。
“自分さえ好かったら善い”ことを欲するなら、“みんなと一緒に渡らない”ことを選ぶしかないのです。
“みんなで渡れば怖くない”ことを欲するなら、“自分さえ好かったら悪い”ことを選ぶしかないのです。
どちらを選ぶかは、それぞれ個人の自由です。
それが、本当の自由です。
本当の自由を得ていない人間のことを、どぶねずみと呼ぶのです。