第百七十六話 死を知ることが好い理由

死を知ることは好いことだったのです。
では一体何が好いことなのか。
死を知らない他の生きものに比べて、死を知ったわたしたち人間は一体どんな好いことがあるのでしょうか。
死を知らない他の生きものは、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖と無縁の一生を送られる。
死を知ったわたしたち人間は、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の一生を送らなければならない。
死を知ることは、好いどころか、好くないことではないか。
そう思われる方は、中途半端な有知、つまり、中途半端な無知である証明です。
中途半端な有知(無知)が、本来好いことを、好くないことと錯覚(勘違い)させている元凶だったのです。
中途半端な有知(無知)が、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の一生を送らなければならない原因だったのです。
中途半端な有知(無知)、つまり、“自分も必ずいつか死ぬ”という「死の概念」が、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の一生を送らなければならない原因だったのです。
完全な有知、つまり、“自分は必ずいついつに死ぬ”という「死の理解」に至れば、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えた一生を送られる。
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖と無縁の一生を送られる。
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えた一生を送られる。
他の生きものとわたしたち人間の差であります。
では「無縁の一生」と「超えた一生」の差とは一体何か。
死を知らない他の生きものは自ら死ぬことができない。
死を知ったわたしたち人間は自ら死ぬことができる。
自ら死ぬことができなければ、自ら生きることはできない。
自ら死ぬことができれば、自ら生きることができる。
これこそが、唯一の権利であり恩恵であります。
これこそが、真の自由であります。
これこそが、本当の自由であります。
新田哲学では、「高度自由」と呼んでいます。
二十一世紀を「高度自由社会」の世紀にしなければ、次の世紀は最早やって来ないのです。