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第百八十話 長い長い間の錯覚 どぶねずみ人間の人生を送るか、本当の人間の人生を送るかの分岐点が、死を知る子供の時期にあります。 お釈迦さんは28歳まで死を知らなかった。 お釈迦さんが生まれた時、祭司がお釈迦さんの父親である国王に、“この子供に死を教えたら、あなたの国を継がなくなるでしょう”と忠言したため、28歳まで死を知らしめなかった。 この話は、 死を知ったら、支配・被支配二層構造の社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 死を知ったら、世襲・相続の社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 28歳で死を知ったお釈迦さんは大衝撃を受けて、この世を捨てた。 美しい妻も、子供も、支配者になる権利もすべて捨てて、死を知ったことによる生の意味を求めて修行の旅に出たのです。 死を知った人間が、生と死の意味、つまり、生死の本質もわからずに生きている人生は無意味である。 いくらこの世的成功、つまり、美しい妻、子供、支配者になる権利を持っていても、生死の意味もわからずに生きているのでは、この世的成功など百害あって一利もない。 だからお釈迦さんはこの世を捨てたのです。 生死の意味がわかるまで俗世を離れたのです。 出家とは、死を知った者が、死を知ることは好いことであることを理解する、生死の意味を知る旅なのです。 お釈迦さんは苦行の末、42歳で生死の意味を知った。 死を知ったら、父親の持つ国を継がなくなる。 この話は、 死を知ったら、支配・被支配二層構造の社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 死を知ったら、世襲・相続の社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 そして、生死の意味を知った。 死を知ったら、“生が好くて、死が好くない”と思い込む社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 死を知ったら、“オスが好くて、メスが好くない”と思い込むオス社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 死を知ったら、“強が好くて、弱が好くない”と思い込む社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 死を知ったら、“賢が好くて、愚が好くない”と思い込む社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 死を知ったら、“富が好くて、貧が好くない”と思い込む社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 死を知ったら、“幸福が好くて、不幸が好くない”と思い込む社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 死を知ったら、“天国が好くて、地獄が好くない”と思い込む社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 死を知ったら、“神が好くて、悪魔が好くない”と思い込む社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 死を知ったら、“健康が好くて、病気が好くない”と思い込む社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 死を知ったら、“支配者が好くて、被支配者が好くない”と思い込む社会が錯覚であることに気づくことを逆に示唆している。 わたしたち一般凡夫は、お釈迦さんよりもっと若い時期に死を知った筈です。 ところが未だに、この真理がわかっていません。 古代・中世・近代・現代に至るまで、差別・不条理・戦争は好くないと思いながら、差別・不条理・戦争を続けている原因は、この長い長い間の錯覚にあるのです。 |