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第百八十九話 「新しい人間(超人類)」は「超論」で考える フォトンベルト肯定説と否定説は所詮、「是否論」、つまり、錯覚(勘違い)の二元論的発想です。 新田哲学風に言えば、正しいと主張する「肯定論」も、間違いだと主張する「否定論」も、所詮は、“正しいは間違い”という同じ穴の狢の好いとこ取りの相対一元論に過ぎません。 「是否論」を超えた「超論」で考えなければ真理は見えません。 宗教も科学も、所詮は、“自分は正しくて、相手(他人)が間違い”という「是否論」の錯覚(勘違い)の二元論的発想ですから、真理など語れるわけがないのです。 “自分たちの宗教だけが正しくて、他の宗教は邪教だ!”なんて言う宗教は悉く錯覚(勘違い)しているのです。 “自分の理論だけが正しくて、他の理論は間違っている!”なんて言う科学は悉く錯覚(勘違い)しているのです。 “正しい”と“正しくない”の二元を超えたところにある共通性に目を向けない限り、真理は見えません。 しかもその真理も100%絶対だとは言えない。 新田哲学では33.3%の真理だと言っています。 新田哲学の根幹に「三の法則」というものがあります。 (1) 二元論 (2) 全体と部分の相対性の法則 (3) 在り方と考え方 この三つの法則の中でそれぞれ共有項が一つ、固有項が二つずつあるため、真理(共有項)といえども、所詮は、1/3、つまり、33.3%でしかあり得ないわけです。 結局の処、 わたしたちが生きている運動世界(運動宇宙)では、真理といえども、100%の真理などあり得ず、精々、33.3%の真理に過ぎないのです。 平たく言えば、 どんな出来事(事象)でも、絶対に(100%)正しいことも、絶対に(100%)正しくないことも無いのです。 そんな考え方は、所詮、「是否論」なのです。 どんな出来事(事象)でも、33.3%正しく、66.6%正しくないのです。 それが「超論」です。 「新しい人間」とは、どんな出来事(事象)でも、「是否論」で考えず、「超論」で考える人間のことに外なりません。 |