第百九十話 「無論」&「有論」&「超論」

わたしたち人間は、どんな出来事(事象)でも、「是否論」=「有論」、つまり、“好い悪い”で考えます。
他の生きものたちは、どんな出来事(事象)でも、「無論」、つまり、“好い悪い”の無い、在りのままを受け入れます。
「新しい人間(超人類)」は、どんな出来事(事象)でも、「超論」、つまり、“好い悪い”を超えて考えます。
「無論」=一元論
「是否論」=「有論」=二元論
「超論」=三元論
「無」=一
「有」=二
「超」=三
もう一度思い起こしてください。
「有」の宇宙とは無い宇宙のことであり、「無」の宇宙とは有る宇宙のことである所以がここにある。
有るものは無い。
無いものは有る。
この訳のわからない話が実は33.3%の真理なのです。
見えるものはすべて映像だから無い。
見る者が実在だから有る。
だが見る者は自分が見えない。
この訳のわからない話が実は33.3%の真理なのです。
自分(『今、ここ』の実在=鑑賞する者)は見えないが、他人(過去の映像=鑑賞されるもの)は見えることが、この訳のわからない話が33.3%の真理である証明です。
見えるものは実在しない、見る者だけが実在する、だが見る者は自分が見えない。
聞こえるものは実在しない、聞く者だけが実在する、だが聞く者は自分が聞こえない。
匂えるものは実在しない、匂う者だけが実在する、だが匂う者は自分を匂えない。
味わえるものは実在しない、味わう者だけが実在する、だが味わう者は自分を味わえない。
触れるものは実在しない、触る者だけが実在する、だが触る者は自分を触れない。
つまり、
五感で感じるものは実在しない、五感(肉体の一部としての五感)だけが実在する、だが五感は自分を感じられない。
つまり、
想い(心・意識)は実在しない、肉体だけが実在する、だが肉体は自分を想えない。
つまり、
考え方は実在しない、在り方だけが実在する、だが在り方は自分を考えられない。
つまり、
部分観は実在しない、全体感だけが実在する、だが全体は自分を部分観できない。
つまり、
二元論は実在しない、一元論(三元論)だけが実在する、だが一元論(三元論)は自分を論じられない。
つまり、
円周は実在しない、始点(終点)だけが実在する、だが始点(終点)は自分を円回帰運動できない。
つまり、
運動は実在しない、静止だけが実在する、だが静止は自分を運動できない。
結局の処、
見えるものは無い、見る者だけが有る、だが見る者は自分が見えない。
詰まる処、
有るものは無い。
『今の自分』という「時空間」がまさに有るもので無い代表です。
無いものは有る。
『過去・現在・未来』という「時間」がまさに無いもので有る代表です。
この訳のわからない話が実は33.3%の真理なのです。
更に、訳のわからない話をすると、
『今』が『過去・現在・未来』という「時間」であり、
『過去・現在・未来』という「空間」が『自分』であります。
従って、
『今』=『過去・現在・未来』=「時間」
『自分』=『過去・現在・未来』=「空間」
従って、
『今の自分』=『過去・現在・未来』=「時空間」
結局の処、
『今』という名の「時間」の汽車の中にいる『今の自分』という「時空間」が、映像宇宙であり、運動宇宙である“運動の光と音と匂いと味と肌触りの宇宙”であります。
つまり、
鑑賞されるものが、映像宇宙であり、運動宇宙である“運動の光と音と匂いと味と肌触りの宇宙”であります。
『今』という名の「時間」の汽車の中にいる『今の自分』という「時空間」を見ている、汽車の外にある『過去・現在・未来』という「空間」、つまり、『自分』が、実在宇宙であり、静止宇宙である“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無境界の宇宙”であります。
つまり、
鑑賞する者が、実在宇宙であり、静止宇宙である“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無境界の宇宙”であります。
自分を乗せているものが運動していると、自分も運動しているのに、自分が静止して、他者が運動しているように見える。
自分を乗せているものが静止していると、自分も静止しているのに、自分が運動して、他者が静止しているように見える。
窓外の光景(空間)である『過去・現在・未来』を、流れる「時間」と錯覚(勘違い)していたのは、『今』という名の「時間」の汽車が走っているからで、走るのを止めたら、窓外の光景(空間)である『過去・現在・未来』も止まります。
それが、汽車の外と汽車の中との違いです。
それが、鑑賞する者と鑑賞されるものの違いです。
わたしたち人間は、「誕生」、「生」、「死」という円回帰運動の一生の中の「生」という円周だけを生きているために、人生の旅をする汽車の中にいる『今の自分』を唯一の自分と錯覚(勘違い)してきたのですが、実は、汽車の外に本当の唯一の『永遠の自分』がいるのを忘れてしまっているのです。
『今』が『過去・現在・未来』になると水平時間(実時間)になる。
『今』が『永遠』になると垂直時間(虚時間)になる。
実は、(実)が(虚)であり、(虚)が(実)だったのです。
有るものは無い。
無いものは有る。
「無論」=一元論
「是否論」=「有論」=二元論
「超論」=三元論
「無」=一
「有」=二
「超」=三