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第二百五十三話 “必死”になる “禅問答”という言葉があります。 禅の師匠が弟子に問題を与える。 弟子は解答を得るために必死になって考えるが、まったく答えを見出せない。 解答を師匠に提出するが、その度、間違っていると突き返される。 それもその筈、そもそも解答などない問題だったのです。 “隻手の声”という白隠禅師の有名な問答があります。 隻手、つまり、片手で音を鳴らせというわけです。 こんなことは到底不可能です、 それを必死に弟子に考えさせる。 それが師匠の狙いだったのです。 必死になる。 必死になるとは、命がけでやるということです。 言い換えれば、 死を受け入れる、つまり、死の恐怖から脱却することに外なりません。 突き詰めれば、 死の恐怖から脱却できれば、生きる上の問題点はすべて解決される。 新田哲学のキーワードの一つになっている“悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖”の所以がここにあります。 必死になる。 宿題を必死になってやる。 そうすれば、“自分は人生の殆ど(99.9999・・・%)を建前で生きていた”ことが分かるのです。 逆に言えば、 “自分は人生の殆ど(99.9999・・・%)を建前で生きていた”ことが分かれば、必死になった証であり、死を受け入れた証であり、“悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖”を超えた証であり、“差別・不条理・戦争”を超えた証であります。 よくよく考えれば、自然社会に生きる他の生きものや人間の子供は、どんなことにも必死になります。 だから、彼らには、“悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖”も“差別・不条理・戦争”もないのです。 |