第三百五話 生・死二元論の死は“死季(しき)”という徳

今までの常識では、“生”という言葉と、“死”という言葉は正反対の意味、つまり、反義語(反意語)でした。
だから、
“生が好くて、死が好くない”という「好いとこ取りの相対一元論」の罠に嵌っていたのです。
「夢の中の眠り」Vol.(V)のChapter900【生・死二元論の死は“死季(しき)”という徳】では、死が実在で、生は死の不在概念に過ぎず、しかも、死は実は“死季(しき)”という徳に外ならないことをお話しました。
「夢の中の眠り」Vol.(V)のChapter900【生・死二元論の死は“死季(しき)”という徳】を下記引用します。

わたしたち知性ある生き物・人間は過去・現在・未来を時間の概念として生きてきました。
他の生き物たちは朝・昼・夜・春・夏・秋・冬を季(とき)の観念として生きてきました。
過去・現在・未来という時間の概念が水平的(量的)時間であり、朝・昼・夜・春・夏・秋・冬という季(とき)の観念が垂直的(質的)時間であります。
過去・現在・未来という時間の概念である水平的(量的)時間で生きてきた知性ある生き物・人間は死の概念を知るに至りましたが、死が未だ来ぬ未来に横たわっているために、死期を知ることができなくなったのです。
朝・昼・夜・春・夏・秋・冬という季(とき)の観念である垂直的(質的)時間で生きてきた無知性の生き物は死の概念を知らないおかげで、死季(しき)の観念を知っているのです。
死季(しき)は四季(しき)でもあります。
日本では“四”という数字を“死”と当てはめて不吉な数字としてきたことが、死の概念の勘違いの原因でもあります。
“死”を“悪い”ことと捉えてしまった。
死とは死期のことであり、死季のことであり、四季のことであるのです。
朝・昼・夜・春・夏・秋・冬という季(とき)の観念こそ、死期のことであり、死季のことであり、四季のことであるのです。
死の概念を持つ人間が死期を知らないで、死の概念を持たない他の生き物が死季を知っているのは一体何故でしょうか。
人間は死の概念を持つから悩みがある。
他の生き物は死の概念を持たないから悩みがない。
釈迦は28歳まで死の概念を持たずに生きてきたから悩みは一切なかった。
ある日、町の中を走っている馬車を見て、御者に訊ねた。
“お前の馬車は何を運んでいるのか?”
御者は答えた。
“死人を運んでいるんだよ!”
釈迦は吃驚して更に訊いた。
“人間は死ぬのか?”
御者は笑いながら答えた。
“人間はひとたび生まれたら必ず死ぬことを、お前さんは知らなかったのかい!”
釈迦は愕然として、そのまま家族にも黙って出家してしまった。
わたしたちの記憶のはじまりは、およそ7歳ぐらいからですが、死の概念を持った季(とき)こそが、記憶のはじまりの時だったのです。
記憶のはじまりとは、悩みのはじまりに外なりません。
他の生き物も記憶を持っていますが、彼らの記憶は五感、つまり、内部記憶装置で記憶しているのに対し、人間だけが大脳(大脳新皮質)、つまり、外部記憶装置で記憶している結果、情報(記憶)伝達の時間のズレが生じる。
この時間のズレこそが悩みの原因なのです。
他の生き物は、『今、ここ』-五感さえも過去情報という微妙なズレがあるために、厳密に言えば、『今、ここ』との間にある『今ここ』という現在-で記憶しているのに対し、知性ある人間だけが過去・未来で記憶しているのが時間のズレに外なりません。
記憶が夢を引き起こす原因なのですが、他の生き物が観る夢は『今、ここ』の夢ですから、悩む主体(自我意識=エゴ)を持たないのに、過去や未来の記憶で夢を観ている人間だけが悩む主体(自我意識=エゴ)を持つのであります。
死の概念を持つということも記憶に過ぎないわけで、しかもその記憶は大脳(新皮質)による記憶、つまり、理論測(統計測)の記憶に過ぎないのであって、五感による記憶、つまり、経験測の記憶ではないから、未だ来ぬ未来の出来事であるにも拘わらず、“自分は必ず死ぬ!”といった自己矛盾に嵌っているのです。
他の生き物の記憶はすべて五感による記憶、つまり、経験測の記憶ですから、未だ来ぬ未来の死など知る由もないのです。
大脳(新皮質)という外部記憶装置による記憶は、過去・未来という時間の概念が介入した記憶であり、理論測(統計測)の記憶であり、考える記憶、連想する記憶であります。
五感という内部記憶装置による記憶は、『今、ここ』という経験測の記憶であり、感じる記憶であります。
感じることと、考えることの間には時間のズレがあり、この時間のズレこそが、『今、ここ』という垂直的(質的)時間に対する、過去・現在・未来という水平的(量的)時間の違いに外ならないのであります。
他の生き物は死の概念を持たないけれど、四季(四季=死季=死期)を知っている。
わたしたち人間は死の概念を持つけれど、死期(死期=死季=四季)を知らない。
生・死二元論の本質を忘れて、“生を好いこと、死を悪いこと”と捉えている、好いとこ取りの相対的一元論という考え方で生きているわたしたち人間だけが、死の概念を持ちながら、死期を知らないという落とし穴に嵌ってしまったのです。
死ぬことを知るということは、死期を知ることであり、死季を知ることであり、四季を知ることです。
必ず死ぬと覚悟していながら、死期がわからないから、死に対する恐怖が湧いてくるのです。
死期がわかれば、死の恐怖はなくなり、自己の使命、つまり、命を使い切ることの意義がわかってくるのです。
宇宙に存在するものはすべて誕生(始点)・生(円周)・死(終点)の円回帰運動をします。
円周の長さが自己の寿命の長さですから、円周の長さを知れば、自己の寿命がわかり、死期がわかります。
円周の長さは、その円回帰運動によって決定されるわけで、最短形態の一瞬から、1息・1秒・1分・1時間・1日・1ヶ月・1年そして一生という最長形態の円回帰運動の円周の長さが自己の寿命です。
円周は生つまり生きているということであり、生きているということは動いている(運動している)ことであり、動作していることであります。
生き物の動作の基本は肉体レベルと五感(想い)レベルに分けられますが、知性ある人間だけは、意識レベルがそれに加わります。
肉体レベルの動作とは、睡眠です。
五感(想い)レベルの動作には、二つのレベルがあって、一つは本能欲(食欲・性欲)に基づくもの、一つは人為的欲望(金銭欲・物質欲・権力欲・名誉欲・悟欲)に基づくものです。
意識レベルの動作にも、二つのレベルがあって、一つは義務的継続であり、一つは非義務的継続です。
義務的継続とは仕事的観念の継続であるのに対して、非義務的継続とは芸術的観念の継続であります。
最長形態の一生の円周の長さは、使命の内容と大きさを表します。つまり自己の非義務的継続努力の水瓶の形と容量を表します。
使命の水瓶の基本形は、早熟型(底が狭く、口が広い逆三角形)と、平均型(円筒型)と、晩成型(底が広く、口が狭い三角形)の三つがある。
宇宙の進化(膨張)・退化(収縮)は七の法則に基づくことは何度も述べてきました。
絶対静止宇宙→全体運動宇宙→星雲宇宙(銀河)→恒星(太陽)→惑星群(太陽系惑星群)→惑星(地球)→衛星(月)の七段階で進化・退化します。
わたしたちの一生という円回帰運動も七の法則が働く結果、七年毎の山・谷曲線を辿ります。
0才→7才→14才→21才→28才→35才→42才→49才→56才→63才→70才→77才→84才・・・。
早熟型は大きな山・谷から始まり、小さな山・谷で終わる一生を送る。
平均型は大小の差がない山・谷の一生を送る。
晩成型は小さな山・谷から始まり、大きな山・谷で終わる一生を送る。
人間以外の生き物は五感(想い)レベル、つまり、本能欲(食欲・性欲)で生きていて、みな平均型ですから、彼らの寿命は種によって決まっています。
人間だけに大きな山・谷、小さな山・谷がある。
大きな山・谷は意識レベルの動作によって決まりますが、早熟型においての大きな山・谷は義務的継続に基づき、晩成型においての大きな山・谷は非義務的継続に基づきます。
小さな山・谷は肉体レベルの動作、つまり、睡眠の長さに反比例することによって決まり、早熟型が小さな山・谷で終わるのは晩年に睡眠量が増えるからで、晩成型が小さな山・谷で始まるのは早年に睡眠量が増えるからです。
睡眠量が増えるとは、睡眠時間の多少ではなく、質の問題であって、睡眠を心地よく捉えることに外なりません。
晩年になって睡眠に心地よさを感じる人は早熟型であり、晩年になって睡眠を苦痛に感じる人は晩成型と言っていいでしょう。
睡眠を苦痛に感じるから、睡眠の量を非義務的継続に費やすことができるのであり、睡眠を心地よく感じている人が睡眠を削ることは至難の技であります。
更に、自己の死期を知るには、自己の一日の朝・昼・夜、一年の春・夏・秋・冬、一生の春・夏・秋・冬を知ることで可能です。
人間には、肉体レベル・五感(想い)レベル・意識レベルの動作があって、この三つの動作によって、幸福感・不幸感を味わっているのですが、意識が眠っている人間には、肉体レベルと五感レベルでの幸福感・不幸感しか実感できないのですが、意識が覚めている人間には、肉体レベルや五感レベルの幸福感・不幸感を意識レベルに変換することができるのです。
平たく言えば、睡眠を心地よく感じるのは、睡眠によって幸福感を経験しているのに対し、睡眠を苦痛に感じるのは、睡眠によって不幸感を経験しているわけです。
一生の幸福感と不幸感は、宇宙の熱力学第一の法則、つまり、エネルギー保存の法則によって一定だと決まっていますから、睡眠つまり肉体レベルの動作によって不幸感を消化すれば、五感(想い)レベル若しくは意識レベルの幸福感だけが残り、睡眠によって幸福感を消化すれば、五感(想い)レベル若しくは意識レベルの不幸感が待ち受けているわけです。
『今、ここ』での自己の肉体レベル・五感(想い)レベル・意識レベルの動作がどんな配分になっているかで、自己の一日の朝・昼・夜、一年の春・夏・秋・冬、一生の春・夏・秋・冬を知ることができ、自ずから、自己の寿命・死期を知ることができるのです。 
鍵は睡眠と非義務的継続との関係にあると言っても過言ではありません。
生・死二元論の死とは、死季(四季)という徳であることに気づくことが悟りであり、覚醒であり、愛であるのです。
他の生き物は、死の概念を持たないのに、四季(死季=死期)という徳を持っているから、悟っているのであり、覚醒しているのであり、純粋の愛を持っているのです。
悟っていないのは、覚醒していないのは、純粋の愛を持っていないのは、知性を持っている人間だけであり、人間社会だけにある差別・不条理・戦争は、悟っていない、覚醒していない、純粋に愛せない人間だけが引き起こす悲劇なのであります。
知性の功罪両側面における功側面である科学の力の卑小さに比べて、悟れない、覚醒できない、純粋に愛せない罪側面は余りにも大きいことを理解すべきです。
二十一世紀に生きるわたしたちは、知性を見直す時代に生きているのであります。