第三百七話 善・悪二元論の悪は“すなおさ”という徳

今までの常識では、“善”という言葉と、“悪”という言葉は正反対の意味、つまり、反義語(反意語)でした。
だから、
“善が好くて、悪が好くない”という「好いとこ取りの相対一元論」の罠に嵌っていたのです。
「夢の中の眠り」Vol.(V)のChapter895【善・悪二元論の悪は“すなおさ”という徳】では、悪が実在で、善は悪の不在概念に過ぎず、しかも、悪は実は“すなおさ”という徳に外ならないことをお話しました。
「夢の中の眠り」Vol.(V)のChapter895【善・悪二元論の悪は“すなおさ”という徳】を下記引用します。

旧約聖書の創世記では、アダムとイヴが神からエデンの園を追放された理由が、善悪の判断をする知恵の実を食したことにあると述べられています。
エデンの園とは自然、つまり、宇宙全体のことですから、善悪の判断など無いのが自然、宇宙であり、自然の中で生きる他の生き物は善悪の判断など一切しないと述べているのです。
創世記での神は、自然の世界は善悪の判断は無いと断言している一方で、出エジプト記では、同じ天地創造の神がモーゼに十戒を筆頭に多くの戒め、つまり、してはいけないことを示していて、その中に“汝殺すなかれ”などがあるわけです。
しかし、自然、つまり、エデンの園で生きている他の生き物は殺しを平然としているのですが、善悪の判断の無い世界ですから、殺す行為にも善悪の判断など一切ありません。
天地創造の神が矛盾したことを言っているとも取れるし、エデンの園を追放されたからこそ善悪の判断が生じ、善悪の判断の下で殺す行為をしてはいけないと言っているようにも取れます。
天地創造の神は万能者であるという前提に立てば、この神は自己矛盾しています。
聖書の中に登場する悪魔や聖霊の存在は、神・悪魔二元論に則した発想だと言えます。
全能者としての神としては自己矛盾があるし、全能者でない神なら神の存在意義はない。
神に対する判断が何れにせよ、善悪の判断による功罪があるわけで、善・悪二元論は相対性に有り、絶対性に無いことは明白であります。
二元論は所詮相対性であり、絶対性ではない。
自然の世界、つまり、エデンの園では、殺す行為は善でも悪でもない。
人間の世界、つまり、エデンの東では、殺す行為は悪である。
この違いは何を意味しているのでしょうか。
善・悪二元論という一枚のコインの質は悪にあることを意味しているのです。
悪が実在で、善は悪の不在概念である。
わたしたち人間が、“悪い”ことと考えている悪が実在していて、“善い”と考えている善が不在概念、つまり、実在しないのは何故でしょうか。
“悪い”ことと考えている悪が、実は“すなおさ”にあったことを忘れてしまったからです。
悪=すなおさ
エデンの園・自然の世界、つまり、宇宙では“すなおさ”の表象であったのが、エデンの東・人間社会、つまり、地球の四十八通りの法則が機能する社会では、善・悪二元論の悪になってしまったのです。
人間社会では、善・悪二元論の悪は“悪い”ことですが、宇宙では悪=“すなおさ”に外ならないのです。
自然の世界で平気で殺す行為をする他の生き物の平気さとは、“すなおさ”に外ならないのです。
善・悪二元論の悪とは“すなおさ”という徳に外ならないのです。