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第三百九話 賢・愚二元論の愚は“愚鈍(謙虚さ)”という徳 今までの常識では、“賢”という言葉と、“愚”という言葉は正反対の意味、つまり、反義語(反意語)でした。 だから、 “賢が好くて、愚が好くない”という「好いとこ取りの相対一元論」の罠に嵌っていたのです。 「夢の中の眠り」Vol.(V)のChapter896【賢・愚二元論の愚は“愚鈍(謙虚さ)”という徳】では、愚が実在で、賢は愚の不在概念に過ぎず、しかも、愚は実は“愚鈍(謙虚さ)”という徳に外ならないことをお話しました。 「夢の中の眠り」Vol.(V)のChapter896【賢・愚二元論の愚は“愚鈍(謙虚さ)”を下記引用します。 この世的成功とは人為的欲望、つまり、金銭欲・権力欲・名誉欲を多く獲得することを言います。 人為的欲望は限り無い欲望であり、その背景には1・2・3・4・5・6・7・8・9と桁上げ0の十進法の数字が潜んでいることは以前に述べました。 本能的欲望、つまり、食欲・性欲は限り有る欲望であり、その背景には運動宇宙(運動の光と音(喧噪)の全体宇宙)の三つの基本法則である誕生(始点)・生(円周)・死(終点)という無限円回帰運動、つまり、1・2・3・1・2・3・1・2・3・・・という数字が潜んでいるのであります。 古代ギリシャ哲学におけるソクラテスとプラトン、ディオゲネスとアリストテレス、古代中国の老子と孔子。 賢人と呼ばれていたプラトン・アリストテレス・孔子といった人たちの思考回路は論理的(logical)であり、論理の背景には水平思考の1・2・3・4・5・6・7・8・9と桁上げ0の十進法の数字が潜んでいたからです。 哲人と呼ばれたソクラテス・ディオゲネス・老子といった人たちの思考回路は非論理的・超論理的(illogical)であり、非論理の背景には垂直思考の1・2・3・1・2・3・1・2・3・・・という数字が潜んでいたからです。 賢人と哲人。 賢人であったプラトン・アリストテレス・孔子といった人たちにとっては、哲人であったソクラテス・ディオゲネス・老子といった人たちは狂人に見えたのです。 賢人と狂人。 賢人であったプラトンにとって死刑の判決を受け、毒を自ら呷ったソクラテスは狂人つまり愚かな人間に見えたに違いありません。 世界の征服者・アレキサンダー大王の指南役だった賢人アリストテレスにとって、アレキサンダーに裸で平然と対峙したディオゲネスは狂人つまり愚かな人間に見えたに違いありません。 春秋時代の中国(魯の国)で「論語」を著し賢人として名を馳せた孔子にとって、一切の書物を残さず無為自然の道を歩いた老子は狂人つまり愚かな人間に見えたに違いありません。 狂人に見えたソクラテス・ディオゲネス・老子たちは、この世的成功を収めた賢人プラトン・アリストテレス・孔子にとっては危険人物に見えたのです。 人類の歴史を検証してみますと、歴史(history)と神話(myth)という二つの伝承方法があり、歴史という方法はこの世的成功を収めた賢人たちによって書物という形で伝えられ、神話(myth)という方法は愚鈍な哲人によって対話(口承)という形で伝えられてきたようであります。 歴史(history)とは、勝利者、つまり、この世的成功者によって捏造された欺瞞に満ちた偽りの歴史であります。 神話(myth)とは、この世的成功とは無縁の者によって密かに伝えられた真実(本物)の歴史であります。 賢人と愚鈍人。 偽物と本物。 偽物とは自分の為に生きなかった人のことであり、本物とは自分の為に生きた人のことであります。 自分の為に生きた人は生死を超えることが出来ますが、自分の為に生きなかった人は生死を超えることが出来ません。 生死を超えられるとは、死んでも持って行ける物、つまり、真理を知ることであります。 生死を超えられないとは、死んだら持って行けない物、つまり、この世的成功を得ることであります。 賢人は生死を超えることの出来ない人間、畢竟、死を怖れる人間です。 愚鈍人は生死を超えることが出来る人間、畢竟、死を怖れない人間です。 この世的成功を収めた賢人の晩年は必ず驚々しい。 この世的成功を超えた愚鈍人の晩年は必ず清々しい。 賢・愚二元論の愚とは、“愚鈍(謙虚さ)”という徳に外ならないのです。 |