第三百十話 貧・富二元論の貧は“清貧”という徳

今までの常識では、“富”という言葉と、“貧”という言葉は正反対の意味、つまり、反義語(反意語)でした。
だから、
“富が好くて、貧が好くない”という「好いとこ取りの相対一元論」の罠に嵌っていたのです。
「夢の中の眠り」Vol.(V)のChapter887【貧・富二元論の貧は“清貧”という徳】では、貧が実在で、富は貧の不在概念に過ぎず、しかも、貧は実は“清貧”という徳に外ならないことをお話しました。
「夢の中の眠り」Vol.(V)のChapter887【貧・富二元論の貧は“清貧”という徳】を下記引用します。

従来の時間という概念が過去・現在・未来へと流れる一方通行であったのを、両側通行の概念に変えるためには、未来・現在・過去へと逆に流れる時間の概念も持たなければなりません。
円回帰運動が両側通行(誕生・生・死)であり、振り子運動が両側通行の変形(甲・乙・丙理論)であり、振り子運動の過去・現在・未来へと流れる一方通行が好いとこ取りの相対的一元論であります。
一方通行と両側通行の違いは、単に流れが一つなのか、二つなのかの違いではないのです。
円回帰運動では、誕生(始点)と死(終点)が静止状態つまり実在であって、生(円周)は運動状態つまり映像であります。
振り子運動では、生(円周)の通過点に過ぎない右端と左端が静止状態に見え、誕生(始点)と死(終点)である最下点が通過点の運動状態に見えます。
実在である円回帰運動と映像である振り子運動では、実在と映像が逆(Paradoxical)に見えるのです。
映像(夢や所謂現実)を実在(現実)と錯覚する原因がここにあります。
フィルムにはネガとポジがあります。
焼き付けしたポジという写真と、現像のネガの像は逆転していますが、実在を反映した現像はネガの方であります。
動画面というポジは静止画フィルムというネガをパラパラと捲った結果の映像であり、ネガとポジの像は逆転しています。
円回帰運動がネガ・フィルムであり、振り子運動がポジ・フィルムであります。
わたしたち知性ある生き物・人間だけが、振り子運動を実在と勘違いしてきた結果、考え方が二元論になり、更に二元論的(好いとこ取りの相対的一元論)になったのですが、その原因は一方通行の考え方にあったわけです。
好いとこ取りの相対的一元論から真の二元論に先ず正し、更に二元論から三元論に進まなければならないのです。
好いとこ取りの相対的一元論から真の二元論に先ず正す方策が、好いとこ取りの相対的一元論から悪いとこ取りの相対的一元論に変えることです。
両側通行をするには、一方通行から先ず逆側通行をしなければ始まらないのです。
“生は好くて死は悪い”から“死は好くて生は悪い”へ。
“オスは好くてメスは悪い”から“メスは好くてオスは悪い”へ。
“善は好くて悪は悪い”から“悪は好くて善は悪い”へ。
“強は好くて弱は悪い”から“弱は好くて強は悪い”へ。
“賢は好くて愚は悪い”から“愚は好くて賢は悪い”へ。
“富は好くて貧は悪い”から“貧は好くて富は悪い”へ。
“幸福は好くて不幸は悪い”から“不幸は好くて幸福は悪い”へ。
“天国は好くて地獄は悪い”から“地獄は好くて天国は悪い”へ。
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“健康は好くて病気は悪い”から“病気は好くて健康は悪い”へ。
“神は好くて悪魔は悪い”から“悪魔は好くて神は悪い”へ。
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“過去は好くて未来は悪い”から“未来は好くて過去は悪い”へ。
死を“死季(しき)”
メスを“純潔度(おんならしさ)”
悪を“悪(すなおさ)”
弱を“弱度(いさぎよさ)”
愚を“愚鈍(謙虚さ)”
貧を“貧度(清貧さ)”
不幸を“不幸度(しあわせの谷間)”
地獄を“地獄界(竜宮城)”
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病気を“病(やまい)”
悪魔を“悪魔(御利益)”
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未来を“死季(しき)”で円回帰する。
と言い換えれば、納得できる筈であり、現代社会の様相を的確に表現しています。
二十一世紀は“金持ちの時代から徳持ちの時代へ”と拙著「富裕論」のサブタイトルにした所以であります。
“徳”とは“貧度(清貧さ)”に外なりません。