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第三百十八話 オスとメスは補完関係 生きものの基本本能は、種の保存本能に尽きます。 わたしたち人間といえども、他の生きものと変わりありません。 オスとメスの番いとしての存在意義も、種の保存本能に起因します。 宇宙論にまで発展して考察すると、やはり、円回帰運動に帰結します。 つまり、 オスとメスによる種の保存本能とは、始点→円周→終点で完結する円回帰運動の円周における世界観を象徴しているのです。 始点における世界感が、 「あの世」=「静止画フィルムの世界」=「客観の世界」=「観念の世界」=「実在の世界」=「絶対の世界」=「静止の世界」=「一元論の世界」=「始点の世界」=「誕生の世界」=「宗教のない世界」=「科学のない世界」=「神のない世界」=「政治のない世界」=「経済のない世界」=「歴史のない世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖のない世界」=「差別・不条理・戦争のない世界」=「偶然の世界」=「『今』の世界」=「知性のない世界」です。 円周における世界観が、 「この世」=「動画面の世界」=「主観の世界」=「概念の世界」=「映像の世界」=「相対の世界」=「運動の世界」=「二元論の世界」=「円周の世界」=「生の世界」=「宗教の世界」=「科学の世界」=「神の世界」=「政治の世界」=「経済の世界」=「歴史の世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の世界」=「差別・不条理・戦争の世界」=「必然の世界」=「過去・現在・未来の世界」=「未熟な知性の世界」です。 終点における世界観が、 「この世とあの世」=「鑑賞席のある映画館の世界」=「主観・客観の世界」=「理解の世界」=「現実の世界」=「絶対・相対の世界」=「静止・運動の世界」=「三元論の世界」=「終点の世界」=「死の世界」=「宗教を超えた世界」=「科学を超えた世界」=「神を超えた世界」=「政治を超えた世界」=「経済を超えた世界」=「歴史を超えた世界」=「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えた世界」=「差別・不条理・戦争を超えた世界」=「必然・偶然の世界」=「『今、ここ』の世界」=「成熟した知性の世界」です。 円周における世界観が「二元論の世界」ですから、オスとメスの番いとしての存在意義があるのです。 言い換えれば、 「二元論の世界」の二元要因とは、一方だけでは不完全で、両方で以って完全になる補完関係を示唆しているのです。 まさに、一枚のコインの表面と裏面が、二律背反関係(対立関係)にあるのではなく、補完関係にあることを象徴しているのです。 オスだけでも不完全であり、メスだけでも不完全であり、オスとメスの番いあってはじめて完全になるわけです。 つまり、 “オス=メス”であって、“オス 対 メス”ではないのです。 況んや、“オスが好くて、メスが悪い”など論外なのです。 ただ、 メスが子供を産み、オスは種を提供する。 この点から、 “メスが実在で、オスはメスの不在概念に過ぎない”、という補完関係にあるわけです。 自然社会がメス社会を維持している所以がここにあります。 人間社会がオス社会を維持しているから、差別・不条理・戦争を繰り返すのです。 従って、 人間社会だけに、支配・被支配二層構造という概念が誕生したのも、“オス 対 メス”の二律背反関係(対立関係)に起因し、“支配が好くて、被支配が悪い”と“オスが好くて、メスが悪い”とは同じ意味であるから、オス社会になったのです。 本来は、 “オス=メス”であって、“メスが実在で、オスはメスの不在概念に過ぎない”、という補完関係にあるわけです。 言い換えれば、 “支配=被支配”であって、“被支配が実在で、支配は被支配の不在概念に過ぎない”、という補完関係にあるわけです。 |