第三百二十一話 未熟な知性=分裂症(自己矛盾症候群)

未熟な知性とは、死の世界を受け入れられない知性に外なりません。
未熟な言語とは、死の世界を受け入れられない言語に外なりません。
成熟した知性とは、死の世界を受け入れられる知性に外なりません。
成熟した言語とは、死の世界を受け入れられる言語に外なりません。
知性を有し、言語を有する唯一の生きものであるわたしたち人間は、死について錯覚をしてきたようです。
その前に、先ず理解しておかなければならないのは、
知性を有し、言語を有するということは、死の概念を有する、つまり、死を知るということに外ならない。
つまり、
知性=言語=死の概念=死を知る
わたしたち人間の祖先である人類は、我が身を守るために二本足になることによって、偶然、知性を得たことは、「今朝のお話(Daily Discourse)」第二百五十四話【必然と偶然の妙】でお話しました。
我が身を守る行為とは、死を避ける行為に外ならず、シマウマがライオンに殺されまいと必死で逃げる行為と同じです。
厳密に言えば、
人類が我が身を守るために二本足になった行為は、シマウマがライオンに食われまいと必死で逃げる行為とまったく同じで、その背景には、「食う食われる」という「死の観念」があったわけです。
その結果、偶然に知性を得て、「殺す殺される」という「死の概念」を有することになったわけです。
他の生きものが有している「死の観念」とは、「食う食われる」意識に外なりません。
わたしたち人間が有している「死の概念」とは、「殺す殺される」意識に外なりません。
「食う食われる」意識では「死ぬ」意識はありませんが、「殺す殺される」意識では「死ぬ」意識が生じたのです。
現に、わたしたち人間も、いまだに「死の観念」を有しています。
餌を食べる行為は、「食う食われる」意識、つまり、「死の観念」に基づく行為であって、「殺す殺される」意識では、到底餌を食べることはできませんが、していることは「殺す殺される」行為と変わりありません。
まさに、「死の観念」と「死の概念」の違いこそ、「食う食われる」意識と「殺す殺される」意識の違いに外ならないのです。
つまり、
「食う食われる」意識→「殺す殺される」意識に変わることによって、「死を知る」ことに至ったのです。
それが、二本足になることによって偶然得た知性に外ならないのです。
ところが、ここで間違いが起こった。
旧約聖書の中で出てくる「十戒」で有名な、“汝、殺すなかれ”という戒めです。
生きることは「殺す殺される」ことに外ならないのに、「殺すな殺されるな」と戒められたら生きることはできません。
自己矛盾が生じる、つまり、精神分裂症になります。
未熟な知性の発生原因がここにあります。
つまり、
自己矛盾、精神分裂症こそが、未熟な知性の正体だったのです。