|
第三百二十二話 知性はしょせん映像 知性を持ったということは、「死ぬ」ことを知ったことに外ならない。 つまり、 「殺す殺される」意識で生きることに外なりません。 従って、 「殺す殺される」意識こそが、「死の概念」に外なりません。 知性を持たないということは、「死ぬ」ことを知らないことに外ならない。 つまり、 「食う食われる」意識のままで生きることに外なりません。 従って、 「食う食われる」意識こそが、「死の観念」に外なりません。 ところが、知性を持ったわたしたち人間でさえも、「死の観念」である「食う食われる」意識を持たないでは生きてゆけません。 そういう点においては、平気で殺す行為をする他の生きものを畜生と蔑む一方で、自分たち人間をいくら万物の霊長と嘯いても、所詮は同じ畜生と認めざるを得ません。 何故なら、毎日食事をしている行為は、「食う食われる」行為に外ならないのですから。 「死の観念」が実在で、「死の概念」は「死の観念」の不在概念(映像)であることの証明です。 「食う食われる」意識が実在で、「殺す殺される」意識は「食う食われる」意識の不在概念(映像)であることの証明です。 言い換えれば、 知性を持たないことが実在で、知性を持つことは知性を持たないことの不在概念(映像」であることの証明に外ならないのです。 言い換えれば、 「死ぬ」ことを知らないことが実在で、「死ぬ」ことを知ることは「死ぬ」ことを知らないことの不在概念(映像)であることの証明に外ならないのです。 「一元論の世界」が実在で、「二元論の世界」は「一元論の世界」の不在概念(映像)であることの証明に外ならないのです。 「観念の世界」が実在で、「概念の世界」は「観念の世界」の不在概念(映像)であることの証明に外ならないのです。 逆に言えば、 生まれたての赤ちゃんや無垢な子供が死を知らないことが、人間も所詮は畜生に過ぎないことの証明です。 極めて重大な結論ですが、 神など所詮は映像に過ぎない証明に外なりません。 |