第三百二十三話 “如何に生きるか?”から“如何に死ぬか?”

「死ぬ」ことを知らないことが実在で、「死ぬ」ことを知ることは「死ぬ」ことを知らないことの不在概念(映像)に外ならない。
「一元論の世界」が実在で、「二元論の世界」は「一元論の世界」の不在概念(映像)に外ならない。
「観念の世界」が実在で、「概念の世界」は「観念の世界」の不在概念(映像)に外ならない。
つまり、
「食う食われる」意識の「死の観念」が無知性の所以です。
「殺す殺される」意識の「死の概念」が未熟な知性の所以です。
「食う食われる」意識も「殺す殺される」意識も超えた「死の理解」が成熟した知性の所以です。
従って、
知性を有し、言語を有する唯一の生きものであるわたしたち人間は、死について錯覚をしてきた。
従って、
未熟な知性とは、死の世界を受け入れられない知性に外なりません。
未熟な言語とは、死の世界を受け入れられない言語に外なりません。
成熟した知性とは、死の世界を受け入れられる知性に外なりません。
成熟した言語とは、死の世界を受け入れられる言語に外なりません。
二十世紀までの未熟な知性の人間は、「生」、つまり、“如何に生きるか?”をキーワードにしてきました。
その結果、
「死」、つまり、“如何に死ぬか?”を避けてきました。
これが、知性を有し、言語を有する唯一の生きものであるわたしたち人間の死についての錯覚に外なりません。
二十一世紀からの成熟した知性の人間は、「死」、つまり、“如何に死ぬか?”をキーワードにすることになるでしょう。